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薔薇と電線

 何の事情かは忘れたが、私は駅から自宅まで歩いていた。普段は自転車で行くところを、駅に自転車を置いて歩いていた。そこは故郷の田舎道だった。十五分くらいの行程だが、空から見ると、私はほんの僅かしか進んでいなかった。
 こんなに疲れているのにまだここか、これなら駅に引き返して自転車で行こうと、踵を返した。まだ全体の四分の一も進んでいないので、その方が良かった。
 駅に戻るのに大きな分かれ道があった。来るときは合流する道なので気が付かなかった。左の坂道を見上げると、そこは茨で囲まれた細い坂道になっていた。こんな道を歩いた記憶はなかったが、右側にあった平坦で牧歌的な道は消えてしまい、この道を選ぶしかなかった。
 薔薇のような枝が道をらせん状に取り囲み、その棘で足の裏から血が流れた。ところどころに大きな棘があり、それは大きすぎて丸みを帯び、座って休むのに丁度良かった。小さな棘はときどき針のように鋭いものがあり、それは十分に見分けて歩く必要があった。
 らせん状の枝が徐々にすぼまっていき、私は屈みながら、棘をなぎ倒すように歩き、さらに這いつくばって枝を掴んで進んでいった。そこまでくると、薔薇自体に栄養がいきわたっていないらしく、棘は透明で弱々しくなり、くすぐったい刺激しかなかった。
 近視の目に黄色と緑色の光線が交互に入り込み、茫漠とした明るさを感じながら、私はぼんやりしていた。気が付くと、長い長い薔薇の枝はそのらせんをまっすぐに伸ばして、駅まで続く電線のようになっていた。電線は坂の上の電柱から弧を描いて垂れていた。そうやって駅に電気を送る必要があったのだ。電気から身を守るために棘ができていったのだ。
 私は坂の上に建っている小さく侘しい家が友人宅であることを思い出し、その家に入っていった。玄関につながる暗い部屋で同級生の家族はテレビを見ていた。台所の窓から薔薇の枝が伸びており、先ほどの電線はこの家にも電気を送っているんだと、合点した。
 彼らは背中を向けたままなので、私はこんにちわと言おうとしたが、口が思うように開かず、声が出なかった。空き巣ではないことを訴えたかった。三つの背中は、彼と両親だった。彼の祖父母は家の横にある墓石の下に眠っていた。
 私は廊下で火花を散らして動いている電線の端を握ると、テレビの画面がゆっくり消えていった。テレビの明るさの代わりに外の淡い光が彼らの陰影をつくっていた。三人は私の存在に気が付いて振り向き、一人が驚きを抑えた声を上げた。途端に私は電線の中に吸い込まれて、彼らの立ち上がる様子を最後に私は消えていった。
 その後、私は記憶を辿り、時間を巻き戻し、右側にあった平坦な道を歩くことにした。左側の道に気が付いてしまったためにこうしたことになっていたのだ。緩やかな道沿いには小川が流れ、鮒が泳ぎイトトンボが水面を飛んでいた。
 私はこの過去の流れから外れないように歩いた。

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