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死にたい気持ち

あらすじ
ある夏の出来事。ゆめちゃんは、気だるい日常を振り払うように出会い系を使っていた。ある日、お風呂から出ると家のドアが開いた。「ただいま」。そこにいたのは、失踪していた一花だった。

敷きっぱなしのマットレスに湿った身体を沈めたまま、エアコンのリモコンを見詰めている。後数センチで指先に届きそうなところにあるリモコンを、掴もうと思ってもう30分経つ。
暑い。
早く部屋を涼しくしなければならないと思いつつ、数センチ腕を伸ばす気力が出ずにいる。すぐそこにあるリモコンのボタンを押すのがめんどくさい。

部屋はたくさんの物でひしめき合っている。40lのゴミ袋4袋、洗濯待ちの服の山、机の上を占拠する化粧品。最近はコバエが飛んでいるのを見るが、それをどうにかする元気はない。
一花がいれば、きっとこの状況に耐えられずに掃除を始めるに違いない。そもそもこんなに荒れるまで、放置しないだろう。

わたしは身体を伸ばして、またリモコンに触れることを試みる。腕だけでなく、胴体も一緒に伸ばす。
指先が少し触れる。いけるかもしれない、そう思うと「よいしょ」と声が出た。リモコンの端を掴んだ。それを足掛かりに、リモコンをこちらへ引き寄せることに成功。わたしは無事、クーラーのスイッチをONにする。

やっと、身体を起こそうという気になってきた。わたしは遠くて見えない掛け時計にピントを合わせようとする。しかし、わたしの視力ではなんとなく15時くらいらしいということしかわからなかった。通りで暑いわけだ。早くクーラーが効いて欲しいと思いつつ、上半身を起こす。
マットレスから離れた肌が少し涼しい空気を吸う。頭がぼんやりとして、気だるい寝起きだ。

「おはよう、すいちゃん。ねむさん」

部屋の隅にいるふたりに挨拶する。一花がいたときは特に話し掛けたりはしなかったが、いなくなってからは起きてからと寝るときと、挨拶をするようにしている。
ふたりがいるスペースだけは物を置かないようにしているが、一花がいたときの部屋を知っているふたりは、今の惨状に呆れていることだろう。

マットレスに座り、ご飯について考える。食器には埃が積もっている。考えたところで意味はない。出掛ける準備をしよう。

重い身体を立たせて、着替えることにする。ハンガーラックにかかっている適当なワンピースを手に取り、押し入れの前に投げる。押し入れは空きっぱなしになっている。今日は上下セットの下着をつける。色は何でもいいから、掴んで出たものにしている。青色だ。下着を着て、ワンピースを着る。

机の上に放ってあるヘアバンドを首に通し、額まで上げる。そうしながら、洗濯して干しっぱなしのハンドタオルを取り、キッチンで洗顔する。温い水が汗を流す。終わったら机の前に座って、化粧を始める。

化粧ボックスはあるのだが、もうほぼ全ての化粧品が机の上にある。なので、鏡を持って、化粧品を使っては置き、使っては置きを繰り返す。
化粧も適当にやってる。だから、30分くらいで終えられる。ヘアスタイルも適当である。アイロンなんか使わない。
今日は16時半に喫茶店へ集合になっている。少し早めに着けるだろう。


最近は煙草が吸える喫茶店が減った。正確に言うと新しく喫煙可の店を開店させるのが難しいらしい。
ここは河原町の中でも有名で且つ、煙草が吸えるところだ。わたしは店内を見回してからボックス席に座る。まだ連絡は来ていないから、来ているはずはないのだけど。

「いらっしゃいませ、ご注文はどうされますか?」
「カフェオレのホットで」
「ありがとうございます」

ウエイターが去るとすぐにわたしはスマホを取り出した。到着したことを伝えなければならない。

『着いたよ!地下の奥にあるボックス席に座ってる
白い長袖のワンピース着てるからすぐわかると思う』

わたしはすぐにスマホの画面をInstagramに切り替えた。みんなのストーリーを見る。日常を垣間見られるこの機能は不思議だ。日常を映えるようにしなければならないという力によって、抑圧されているのだから。

「こんにちは」

ハッと顔を上げて、反射的に「こんにちは」と返す。

「ゆめのちゃん?」
「そう。知宏?」
「うん、そう。よろしく」

そう言うと知宏はわたしの向かいに座る。小さなショルダーバッグを横に置き、わたしの方へ向かい直る。

「はじめまして、やね。ここ、すぐに分かった?」
「うん、何度も店の前は通ってたからすぐ分かったよ。煙草吸うんだっけ?」
「ああ、うん。煙草、嫌いやったりする?」
「いやいや。全然、大丈夫」

知宏はバッグから煙草とライターを取り出し、机に置いた。
周りの人が煙草を吸っている店にいるのだから、知宏も吸いたいに違いない。

「吸ってもらっても大丈夫なんで」
「うん、ありがとう。じょあ、吸おかな」

知宏の右手が煙草の箱を掴む。煙草をポンポンと上から叩き、出てきた一本を取り出す。煙草の箱を置いて、左手にあるライターをつける。
煙草を加え、火を近付ける。空いた右手で風を防ぐようにして火を包む。カチッ。

ふぅーと、煙草の煙を斜め横に向いて吐く。わたしにかからないようにしてくれる配慮があるのだな、と思う。

「知宏は昔から煙草吸うん?」
「うーん、25くらいから。ちょっと遅かったんよな」
「そうなんや。でも歴は長いやんね?そうなると」
「そうやなぁ、10年くらいやな」

知宏の顔と煙草の灰を落とす手を交互に見つつ、話を進める。筋張った手の甲と腕に、なんだか色気を感じる。

「お待たせしました、ホットオレです」
「アイスひとつ、お願いします」
「ありがとうございます」


「タトゥー入ってるって言うてたけど、思ってたよりでかいな」
「そう?」
少しゴワゴワした掛け布団と、弾力性のあるマットレスは寝心地があんまり良くない。知宏はわたしの背中をじっと見詰める。
「そんなに珍しい?」
「珍しいやろ。女の子の背中にそれなりの蛇がおるって、聞いたことないで」
「そうなんや、可愛いと思うんやけどなぁ」
「どっちかって言うとイカついで」
「なんでよー」
「いや、ほんまやって」
わたしは知宏の方に身体を向けて、軽く押し退けた。笑いながらそれを抑えようとする腕に、腕力の差を感じる。
離れようとするわたしの身体を引き寄せようとする知宏の力に負けて、肌が合う。自然と腕が背中に回る。大きな手がわたしの背中を這う。
「あっ」
と、つい声を出してしまう。
「なんよ」
ニヤニヤした知宏がわたしに意地悪を言う。
「なんよってなによ」
「なによって、声出したんはゆめの方やで」
「うるせぇ」
わたしはまた押し退け始める。


「すいちゃん、ねむさん。ただいまー」
ゴミ袋のたまった廊下を抜けて部屋に入る。ふたりは部屋の奥で静かに佇んでいる。
鞄を床に置き、上着をハンガーラックに戻す。そのままマットレスへ横になった。
こういうとき、相手の匂いが身体についていたりするのだろうが、わたしは鼻が効かない。だから、知宏の匂いもわからない。ついさっきまで一緒に寝ていた人の匂いなのに、わたしは持ち帰っていないつもりでいる。
明日はゴミの日だ。朝早くに起きなければならない。起きることができればいいのだけど。またゴミが溜まってしまう気がする。

ピピピ、ピピピ、ピピピ…

けたたましい電子音。わたしは苛立ちながらスマホを手に取って画面を指で連打した。
目が開かない。身体が重い。動きたくない。スマホを掴んで見る。まだゴミ捨てに間に合う。行かなければ。布団をめくって、身体を起こす。

「おはよ、すいちゃん。ねむさん」

ゴミは4袋。全部を一度に運ぶことはできないので、2回に分けて運ぶ。ゴミ袋を持ったまま、ドアを開けて、階段を降りる。そして、ゴミ捨て場にあるネットの中に放り込む。これを繰り返す。
やっと部屋の廊下にスペースができた。しかし、ここはすぐに埋まる。できるだけゴミ捨てをしなくて済むように大きい容量のゴミ袋を机の横に置いているのだけど、自炊をしないので買ってきた弁当や割り箸、パンの袋なんかですぐにいっぱいになる。前はこんなことなかったのにな。

わたしはまたマットレスに横になり、めくった布団を戻す。起きたら何か食べよう。



目が半分しか開かない。薄い視界でスマホを探す。腕を伸ばして辺りを触るが見つからない。自分の隣を探すと、スマホはわたしの下敷きになっていた。
スマホに顔を照らされる。目の前にはわたしと一花の写真がある。毎朝、これを見て複雑な気持ちになる。仕方ないのだけど。

TwitterやInstagramを一通り見て、身体を起こす。今日はクーラーのタイマーをちゃんとつけていた。わたし偉い。

「おはよう。すいちゃん、ねむさん」

返事はない。一花は心の中でも、声を出しても話していたが、わたしにその能力はない。ふたりの声を聞くことはできない。

朝ごはんは冷凍した食パンを焼いてチーズを乗せたものを食べる。飲み物はホットミルク。最近は決まったものしか食べない。食事は毎日、1食と少し。この食パンがその「少し」だ。

机の上に食パンとホットミルクが並ぶ。いただきます、と言うこともなく黙々と食べ始める。ながら食べしたりはしないので、静かな食事を淡々と進める。食べることは作業だ。作業に戻ってしまった、残念なことに。

わたしにやるべきことはない。毎日、出掛けるか、家で寝ているかだ。今日は何をしよう。働いてもいない。特にお金を使うこともないので、すぐに困りはしないが、貯金はいつか底を尽く。しかし、わたしはこの部屋を出たくないし、引っ越す精神的な余裕がない。

食べ終わった皿とマグカップをキッチンへ持っていく。面倒なので洗い物も極力しない。使える皿とコップがなくなったら洗う。皿とコップ以外にも食器はあるのだが、今は使っていない。

明日は予定があるが、今日は何もない。前までは喫茶店に行くのが好きで、行きつけの店も何ヶ所かあったのだが、一花がいなくなってからはなぜか行けなくなってしまった。大好きだったシーシャ屋通いもできなくなった。もう1年はシーシャを吸ってない気がする。

今のわたしには友達と呼べる人がいない。SNSも、連絡先も、一度すべて消してしまった。誰もわたしと連絡がとれないのだ。家族は元から疎遠になっていたし、今こういった状態になっているのも知らない。

わたしはブラトップを着て、シャツとズボンに着替えた。スマホと財布だけ持って部屋を出る。マンションの階段を降りて歩き出す。
歩いてすぐのところに小さな神社がある。一時、そこにお参りに行っていたことがあった。最近、また行くようになったのだが、毎日は行けないので気が向いたら行くことにしている。

道路から細道へ入ると神社に着く。砂利の音をさせながら少し進んで、鳥居の前にやってきた。そのまま進み、本堂の前ヘ。お参りを始める。
この神社は親切なことにお参りの手順が書いてあるので、いつも迷わずに済む。書かれているようにお参りを進めて、手を合わせる。
『どうか、一花を返してください。お願いします』


「今日の晩ご飯どうする?」
「どうしようね、コンビニで買って来ようか?」
「本当に!?ありがとうー」
一花は優しい。いつもわたしを気遣ってくれる。わたしはそれに甘えていた。
夜は冷える。寒さが苦手な一花はタイツの先を靴下に入れて、裏起毛のズボンをはき、長袖のもこもことした服の上に上着を羽織って、マフラーとニット帽で防寒する。一花はよく、この格好は可愛さを捨てて、防寒に振った服装だと言っていた。

「じゃあ、いってくるね」
「うん、鍵閉めとくよー」
「ありがとうー、いってきまーす」
「いってらっしゃーい」
手と手を合わせて、軽いハイタッチをする。そして、ドアを閉めて鍵をかけた。

わたしはそれから布団の上に戻り、スマホをいじりつつ、帰りを待った。Twitterは相変わらず炎上させられるトピックを探していて、長いことトランス女性へのヘイトが絶えない。こういったツイートにはうんざりする。そう思いつつ、ツイートを見てしまう。なぜなのか、自分でもよく分からないが、見ておかないといけない気がしていた。

そんなことを考えていると、不意に時間が気になった。一花の帰りが遅い。何を買うのか迷っているのだろうか。まぁ、いいか。
わたしはまた、スマホに視線を移した。

おかしい。

そう確信したのは40分ほど経ってからだった。家からコンビニまでは5分ほどで行けるのに、遅すぎる。
わたしは急いで着ている服の上から上着を羽織り、靴下をはいて家を出た。コンビニまでの道のりを歩いて一花を探す。家を出て右に曲がり、最初の交差点をまた右に行く。しばらく歩いて少し大きな道に出ると、そこを左へ曲がる。そうするとコンビニが見えてくる。
コンビニまでの道にはいなかった。そして、なぜかコンビニにも一花はいなかった。わたしは焦って、とりあえずレジにいる店員に話し掛けてみた。

「すいません、背格好がわたしと同じくらいでニット帽を被った眼鏡の人が来ませんでしたか?」
「えっと、すみません。たぶん、来られていないと思います」
「そうなんですか。ありがとうございます」

わたしはコンビニを出て、どうするべきか考えた。そして、家に帰ってみることにした。もしかしたら、帰っているかもしれない。
来た道をそのまま戻り、マンションの階段を駆け上がった。鍵を開けてドアを開く。
「一花?一花いないの?」
一花はいない。どうしていないんだ。これは、どうすればいいんだろう。
わたしは部屋の中で呆然と立ち尽くしてしまった。最悪のシナリオを想定しなければならない、かもしれない。そんなことを考え始めた。
コンビニに行くとだけ告げた一花が、自らどこかへ行くことなんてあるだろうか。何か事件に巻き込まれたのではないか。店員の言うことが確かなら、行くまでの間に何かが起こったのだろうか。
ハッとして気付く。警察に行くべきだ。最寄りの交番へ行って、一花を探してもらおう。
「いってきます」と言ってから一時間半が過ぎようとしていた。

不安と混乱で眠れないまま、次の日を迎えた。交番で一連の手続きをしてから帰って来たわたしはどうすればいいのか分からなくなっていた。
もう一花が帰って来ないんじゃないか。いなくなってしまったのではないか。生きていないのではないか。
そう思うとボロボロと涙が出た。二枚敷かれている布団を見詰めながら、壁にもたれかかって泣いていた。

そうして、一花はいなくなった。

コンビニの防犯カメラには一花らしい姿はなく、道路に面する防犯カメラにも写っていない。何かあったとしたら、家の前の道だろうということだった。
事件ならすぐに分かるのではないかと、警察からの電話にいつでも出られるようにと考え、スマホをマナーモードにすることはなくなった。そうやって、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と過ぎ、もう2年経ってしまった。

一花が家族だと言っていたドールに声をかけるのは、一花ならそうして欲しいだろうと考えたからだ。声をかける程度しかできていないけれど。
一花は、もっと話し掛けていたと思うけれど、わたしはこの子たちに何を話せばいいのかわからない。しかし、常々、「自分が死んだらこの子たちがどうなるか心配」と言っていたから、挨拶くらいはしようと努めている。

一花には精神疾患があって、鬱になると死にたがった。だから、もしかしたら死んでしまったのかもしれない。今でも考えれば考えるほど、憂鬱になる。

「駄目だ」

もはや、思い出したくない事件となってしまった2年前の冬。次の冬でもう3年になってしまう。
わたしは身体をマットレスへ倒した。スマホを掴み、出会い系アプリを開く。通知がいくつかきていた。
メッセージがひとつ返ってきている。送り主は晶(あきら)。晶とは一週間前くらいからメッセージのやりとりを始めた。わたしは話の流れを無視して、メッセージを送った。
「こんにちは。もし、晶が良ければ、今日会わない?」


青色で半袖のワンピースに日傘。はいている靴は一花がプレゼントしてくれたものだ。
今日は日差しが強い。長袖で来るべきだった。足は日焼け止めクリームを塗っているけれど、ロングスカートの方が良かったかもしれない。

四条河原町の交差点は相変わらず人が多い。人々という点が、集まって流体になったかのように動く。わたしは交差点の東南に着いた。ここなら建物の影に入れる。良いところを待ち合わせ場所にできて良かった。日傘を閉じてまとめる。

通り過ぎていく人々を見る。わたしの格好を伝えておいたから、きっとあちらから見つけてくれるとは思うが、俯いてスマホをいじっている人に話し掛けるのは大変だろう。

顔を上げて待っていると横断歩道を渡ってきた人と目が合った。そのまま近付いて来る。恐らくこの人が晶だろう。
「こんにちは」
「こんにちは、晶?」
「うん、そうやで。夢やんな」
「うん、そう。はじめまして」
「はじめまして、どこ行こうか?」
晶は背が高く、細くもなく太くもなくといった体型で、わたしより少し若い。
わたしたちは適当に北へ歩き始めた。すぐにわたしは小さな喫茶店へ行くことを提案する。
「いいよ。そこ行ったことないし、気になる」
晶の承諾を得て、わたしは道案内をしつつ歩く。喫茶店は木屋町にあり、通りから細い入り組んだ道を行って、コンクリート打ちっぱなしの建物の二階にある。

「いらっしゃいませ、空いてる席どうぞ」

わたしたちは一番奥にあるテーブル席に座れた。ラッキーだ。ここはいつも混んでいて、あまりテーブル席に座れたことがない。
「今日、あんまり混んでなくて良かった」
「そうなんや。すぐ人で埋まってしまうん?」
「そうやなぁ。結構、有名店なんよ」
「へぇ、俺知らんかったわ」
「そっか。何頼む?」
わたしはメニュー表を指さす。メニュー表はラミネートされた一枚しかなく、机に立てて置かれている。わたしはここのチーズケーキが好きなので、それとカフェオレを注文することにした。
晶は少し悩んで「コーヒーかな」と一言、言った。

「すいません」
手を挙げて店員のほうを見る。
「はーい」
返事をしながらカウンターを出て、数歩、歩けばわたしたちの隣になる。
「何にされますか?」
「チーズケーキとカフェオレのホット、あとコーヒーください」
「コーヒーはホット、アイスいかがされますか?」
「アイスで」
「かしこまりました」
店員がカウンターへ戻って行く。
「こんなに暑いのにホットオレなんや」
「冷たい飲み物はお腹が冷えるから飲まへんようにしてんねん、腸活とか知らん?」
「知らんなぁ、美容にいいってこと?」
「まぁ、そんな感じ」
「大変やな」
晶はそう言いながら、邪魔そうな前髪を少し横に流した。目にかかりそうなくらい長い前髪と細い目が、わたしの好みだ。
「そう言えば、夢は一人暮らしなん?」
「ん?そうやけど、なんで?」
「いや、行ってみたいなと思って」
「あかんよ、めっちゃ汚いもん」
「そうなん?意外やなぁ」
「見た目と部屋の中は関係ないやろ」
自分の部屋に他人は絶対、入れたくない。汚いというのは事実だが、それは言い訳に過ぎない。
「はじめましてやのに、そんなこと言う方が意外やわ」
「そう?一週間くらいやけど、めっちゃDMしてたし、全然、はじめましてな感じせえへん」
「それはうちもそうやけど、知り合って一週間やで。しかも出会い系」
「出会い系かどうかなんて関係ないやん。一週間やけど、気を遣ったりしなくてええなって言うてんの」
「晶って変わってんね」
「え?そう?夢に言われたくないわー」
「なんでよ、うち変わってへんし」
「絶対、嘘」
「嘘ちゃうし」
わたしたちは笑いあった。
「お待たせしました、ホットオレとアイスコーヒーです」
机の上にトンッと食器が当たる音がする。
「ごゆっくりどうぞ」
店員はそう言いながら去っていった。



「おー、すごいね!」
わたしは目の前に広がる光景に、素直な反応を見せる。
「せやろ?こういうところも面白いかなーって思って」
「やっぱり晶、変わってるわ」
「そんなことないやろ」
目の前にはピンクを基調としたロココ調な柄のある派手な壁紙。猫足のソファは金色の縁に囲まれ、白地にこれまた金色の柄。豪華な天蓋付きのベッドは薄いピンクなのに、キラキラとラメで輝いている。
わたしはソファに鞄を置き、部屋を見渡す。目がチカチカとしてきそうだ。
「お風呂、見てくる!」
わたしはワクワクしながらお風呂場へと向かった。晶はそんなわたしについて来る。
「すごーい」
丸くて大きな湯船、洗い場も広い。壁にはマットが立てかけられていた。
「夢はマットできるの?」
「できひん。講習、受けてへんねん」
「講習?」
「教えてくれんねん。前風俗嬢やった人とかが講習員さんになって、手取り足取り、こうやってやるんやでーって」
「すごいな、そんなんあるんや」
「うん、3時間くらい受けたかな」
わたしはそう言って部屋に戻ろうとする。晶はそれについて来る。

ベッドに座ると、晶がぴったりとくっついて座ってきた。
「どないしよかな、とりあえずソファで撮りたいな」
「おっけー、服はどうする?」
「下着だけで」
「はーい」
わたしはその場でパッと服を脱いでいく。裸になることに抵抗はない。今日は、ボルドーに少し黒いレースがついた下着。大人っぽい感じの下着だ。
「どうしたらいい?」
晶は大きめの鞄からカメラを取り出し、何かいじっている。わたしにはカメラのことは全然わからない。
「えーっと、とりあえず座って。試しに撮るわ」
わたしは言われたままに座り、カメラの方を見る。
「何枚か撮るわ」
「はーい」
カシャ、カシャカシャ
カメラの画面を確認すると、晶は小声でなにか独り言を言う。何かしらの微調整が必要なのだろう。カメラを触っては撮る。3回くらい繰り返して、「おっけー」と笑顔を見せた。


「次は全部、脱いでもらって。背中、撮りたい」
わたしは下着をソファに放り投げ、ベッドで膝をついて、カメラに背中を向ける。後ろからシャッター音が聞こえた。
「ええなぁ、このタトゥー。俺、結構好きかも」
「あ、ほんま?やったね」
「背中、多めに撮ろかな」
喋る声にシャッター音が混ざる。わたしは身体をくねらせたり、顔を後ろへ向けてみたりする。晶は撮ることに夢中なようだ。

何時間もかけて、わたしたちは写真を撮った。この部屋で撮れそうなところは全て使って撮った。どこも派手だったので、どこでも映える写真になるらしい。
「ありがとうー、めっちゃ撮ったなぁ」
「何枚撮ったん?」
「300くらい」
「そんなに?」
「ほら」
晶がわたしの隣に座る。カメラの画面には撮った写真の一覧がびっしりと並び、かなりスクロールしないと終わりまでたどり着けなかった。
「すごいなぁ」
「こっからピックアップして、いろいろ編集して、出来上がり」
「大変やね」
「好きでやってることやしな。楽しいよ」
「そうなんや」
カメラの画面を眺めながら、晶は話していた。もう選定が始まっているのかもしれない。
「モデルすんの、初めてちゃうんやったっけ?」
「うん、5年くらい前にやったかな」
「ふーん、その時はタトゥーあったん?」
「いや、なかったよ。1年くらい前にいれたからね」
「いれてから撮影できて良かったわ、俺好きやな。この蛇」
そう言いながら、わたしの背中を自分の方に向けるよう、肩を掴んで動かす。
「結構、リアルやから怖いって言われることの方が多いんやで。やっぱ変わってんね」
「そうなん?なんていうか、エロい」
「エロい?なにそれ」
不意に細い指が蛇の上をなぞった。少しひんやりとして、わたしは小さくビクっと動く。
「撮影ってさ、俺、性的な行為に近いと思うねんな」
「どうしたん?急に」
「いや、今日撮ってても思ってたんやけど。撮られる側は撮る側に支配されてる感じがすんねんな。撮られる人はそれを望んでるとこもあるんちゃうかなって」
「ふーん、なるほど」
「夢はどう?そういう感じする?」
「うーん、でも、まぁ、支配されるのは嫌ではないかな」
「そうなんや」
晶と目が合う。しばらく見詰めあって、わたしたちは手を握りあった。


「ただいま、ねむさん。すいちゃん」
わたしは気怠い身体をマットレスへ放った。疲れるのは悪いことではないが、帰るとやる気をなくしてしまう。
晩ご飯は外食で済ませた。明日は洗濯をするべきだろう。お風呂には入った方がいい。

身体を起こして、ワンピースを脱ぎ、ぐちゃっと横に置く。マットレスへ再び横になると、背中の蛇が少し疼く。
わたしがこのタトゥーをいれたのは、1年くらい前のこと。わたしがお願いしたデザインを、彫り師の人がアレンジし、座高に合わせてデザインし直してくれたものだ。
自分では見えないが、気に入っている。SNSや出会い系のプロフィール覧には必ず書くくらいには気に入っている。

彫った理由は蛇が好きなのと、一花がよく背中に指を這わせていたからだ。それを忘れたくなくて、タトゥーにした。いろんな人がその上をなぞる度に、一花のことを思い出したりする。悪趣味だろうか。

しばらく横になり、わたしはお風呂に入る決意を固めた。シャワーだけでも入らなければ。
身体を起こして、下着をネットに入れて、洗濯に放り込む。風呂場へ行って水栓を捻り、シャワーを浴びる。今日、身体についたいろいろを洗い流す。
晶は面白い人だし、相性も良いと思うけど、何となくずっと一緒にいたい感じではなかった。たまに会うくらいが良さそうな気がする。

お風呂に入ると蛇が清められるような感じがして、勝手に神聖な気持ちになる。不思議な話だ。

シャワーは15分くらいで、スっと終えた。一花がいるときは湯船に必ず浸かって、2時間入ることもあった。
 
お風呂を出て、頭を乾かす。ドライヤーのうるさい音がわたしは嫌いだ。
乾かし終わったところで、「ガチャ」という音がした。隣の家の音だろう。

「ただいま」

「え?」
わたしは驚いて玄関の方を見た。
「ただいま」
「え、一花…?」
「うん、ただいま。ゆめちゃん、お風呂入ってたの?」
わたしは驚きのあまり、動けなくなった。どういうことなんだ。
「大丈夫?もしかして、俺のこと忘れた?」
「いや、忘れてへんよ…」
戸惑ってしまって、言葉が出ない。
「ごめんね、遅くなって」
一花はこちらに来て、わたしの手を握る。ちゃんと感触がある。あたたかい。一花の手だ。わたしは空いている手で一花の手を包むように握り返した。
「一花…今までなにしてたん…」
「ごめんね、ずっと待っててくれたんやね」
「待ってたよ、当たり前やん。2年もどこ行ってたんよ」
「大事なことを済ませて来てん。ゆめちゃんなら待っててくれるって信じてたよ」
「大事なこと?どういうこと?」
「愛することを理解できてん」
「え?なに?」
「だから、大事なことを理解するためにこの2年を使ったんよ」
一花は何だか落ち着いていた。わたしは変わらず戸惑っていた。何がなんだかわからないが、一花の話を聞くしかない。

「夢ちゃんがよく『知らないことは存在しないのと同じ』って言ってたでしょ、それがよくわかったよ」


「いってきます」
部屋のドアをバタンと閉める。廊下を歩いて階段を降りる。マンションから左側へ向かって、歩き始める。するとすぐに小さな交差点に出る。

最近は憂鬱になる日が増えた。ゆめちゃんに見放されるんじゃないかという考えが頭の中をぐるぐるとして、離れなくなる。もし、帰っていなくなってたらどうしようか。そうしたら、いよいよ死ぬしかないだろう。

右側に光が見えた。ハッとしてそちらを向くと俺は光に包まれて、何も見えなくなった。

真っ白な視界が少しずつ見えるようになってくる。すると今度は真っ暗になった。自分が見えるか見えないか程度しか視認できない。戸惑いながら、じりじりと動いてみる。両手を前へ伸ばして、安全を確認する。急に何か壁にぶつかった。「おう」と思わず声が出る。
よくその壁を触ってみると、木の板のようなものだということが分かった。何となく押してみる。少し動いた気がする。次は力をいれて押してみた。
「うわっ」
バタンッ
板ごと地面に倒れる。眩しい光に目を細めた。
「ここは…」
目の前にあるのは町の中にある市場だった。人々が行き交い、屋台のような店が並んでいる。自分はそんな中に建っている家から出たらしい。
誰も特に見向きもしない。呆然としていると、鞄がないことにハッと気づいた。ポケットを確認してみるも何も無い。着の身着のまま出て来たような格好になっている。
立ち上がり、辺りを見回す。中国か台湾か、分からないがそんなところのように見える。ざわざわと騒がしい音、人の話し声、眩しい太陽、空を這い回る電線と連なる看板たち。看板には漢字のような読めない字がひしめき合っていた。
戸惑っていると目の前を犬が通り過ぎていく。耳の垂れた寸胴で可愛い犬だ。てくてくと歩いていく。なんとなく、その犬について行くことにしてみる。小さくて垂れ下がった尻尾が左右にゆらゆら揺れている。
この市場はどうやら広いようで、後ろを見ても、前を見ても終わりが分からない。長細いかたちをしているようだ。
放り出された野菜や吊り下げられたよく分からない肉のようなもの、粉末状の香辛料みたいなもの、いろんなものが売られている。鉄板で何かを焼く音もするし、怒鳴りあってる人もいた。
通り沿いの家からは洗濯物が紐に吊り下げられてアーチ状になったものが、あちこちのベランダみたいなところに干されていた。人も多く住んでいるらしい。
歩いていた犬が右に曲がった。薄暗く、細い道だ。人もいないようだった。少し悩んだが、やっぱりついて行くことにする。少し歩くとその犬は、とある家のドアにある犬専用の小さい扉を通って中に入ってしまった。
「どうしよう」
ぽつりと呟くと中から声がした。
「おお、帰ってきたのか」
どうやら飼い主がいるらしい。放し飼いなのだろうか。どうするべきか戸惑い始める。元来た道を戻って市場に出てみるか、どうするか。
バタッ
「あっ」
犬が入っていったドアが開いて、中から大柄な人が出てきた。思わず俯く。
「誰だ?こんなところで何してんだ」
「あ、いや。その、犬について来ただけです」
「犬に?お前、名前は?」
「えっと、一花です」
「一花?ここらの人間じゃないな?」
「なんていうか、その説明が難しいんですけど、ここらへんの人間じゃないです」
恐る恐る顔を上げる。その大柄な人を見て、俺はまた驚く。片目がない。いや、正確には片目がレンズを埋め込んだようになっていて、真ん中に緑の点があり、それが俺を見ているのだ。もう片方は人間の目だ。
驚いて顔を見ていると「なんだ?」と言われ、肩が上がる。
「お前、俺の目を見て驚いてるのか?変なやつだな、これくらいまだマシだろ」
どういうことか分からない。何も返事ができずにいると、犬が出てきた。
「うるさいから出てきちまったじゃねぇか」
犬を抱き上げる。ハァッ、ハァッと息をしている犬の尻尾がぶんぶんと振られる。
「で、お前ほんとは何しに来たんだ?」
「え、いや、本当にたまたま来ただけで…何かとかなくて」
「家はどこだ?」
「家?」
そうだ、ゆめちゃんが待っている家に帰らなければならない。しかし、どうやって帰ればいいんだろう。
「なんだ、家がないのか」
そう言うとその人は家のドアを開けて、「入れ」とだけ言った。

中に入るとそこは狭い部屋だった。狭いと言ってもソファとベッドがある。机にはパソコンの電子部品みたいなものが散らばっている。キッチンは汚そうだ。
「とりあえず、座れよ」
そう言われ、椅子に座る。少しガタガタとしている。
「お前、一花って言ったな。どこの出身なんだ」
そう言いながら、煙草に火をつける。
「出身…出身は関西です」
「どこだそりゃ」
「えっと、日本にある地域です」
「日本?」
急に声が大きくなる。
「え?」
「お前、日本から来たのか?」
「あ、はい…」
「はぁ、そりゃあ大変だなぁ」
煙草の煙をふうーっと吐きながらそう言われた。
「たまにお前みたいなやつが紛れ込むんだ。最近は怪しいやつらも増えたし、政府が裏で実験してるなんて噂もあってなぁ。まぁ、とにかく、元いた場所に帰れるなんて思うなよ。無理だ」
「え?帰れないんですか?」
「ああ、ほとんどは帰れなくなってそのままここの住人になってるらしいからな」
これからどうすればいいのか。ゆめちゃんを置いて、ここで暮らすなんて。そんなことできるのか。
「あの、ここはどこなんですか?」
「ここは亜門。大陸の端っこにある貧困街だよ。そこのデカい市場が有名なところだ」
煙草の火を消す。緑色の点がこちらを向く。
「ところでお前、いつ亜門に来た?」
「さっきです」
「そうか、まぁ、どうせロクな奴じゃないんだろう。ここに来る奴はみんなそうだ」
「そう、なんですか?」
「ああ、そうだ」
ドライバーを手に取り、机にある部品をいじり始める。
「ここの政府はな、恐怖を持たない兵士を作ってるんだ」
「え?」
「恐怖を持たない、それは死ぬことが恐くないということだ。そして、あらゆる地域から『死に対して恐怖のない状態』を集めてる」
また煙草に火がつく。
「この世界ではなネットワークができてる。そのネットワークには毎日、いろんな人間がアクセスして、俺なんかは常に多少、繋がっている状態にある」
頭を人差し指でトントンと叩く。
「そのネットワークには感情の記録がある。気持ちも痕跡が残る。それを利用して『恐怖のない兵士』を作るんだと。そして、そういうのにはお前みたいな奴が役立つ。思い当たる節、あるんじゃないか」
「思い当たる節…」
「最近、日本ってとこからそういう便利な奴らが引っ張られてるって話があったんだ。嘘だろうと思ってたが、ほんとだったとはなぁ」

俺はもう情報が多すぎてパンクしそうだった。なんで自分が兵士を作るのに役立つんだ。ネットワークって、感情の記録ってなんなんだ。

「ネットワーク、ってなんですか?」
「共通認識みたいなもんだ。りんごって言われたらりんごを思い浮かべられるだろ?複数人いても同じことができる。そういうことだ。ここでは、もっと強いが、これ以上は口で説明するのが難しいな…。お前もネットワークにアクセスしてみればいい。簡単だからな」
「え?そうなんですか?」
「ああ、俺みたいに常に繋がっておくには改造する必要があるが、そうしなくてもアクセスはできる。この紙に書いてあるとこに行け。一応、公共のもんだから日本から来たとか言うなよ」
一枚の紙には、『あなたもネットワークにアクセスしよう』と書かれていた。端にはマスコットキャラクターが描かれている。
「あんまりお前みたいな奴をアクセスさせるのは良くないんだろうが、まぁ、少しくらい良いだろう」

俺はよく分からないまま、その紙を頼りに出ることにした。大柄な人はこちらを見ずにまた煙草を吸っていた。

市場に戻ると少し人が減っていて、店は片付け始めている。貰った紙には、この通りをこのまま進むと看板があって、そこが施設になっていると書いてある。
人々はこれから家へ帰るのだろうか。ゆめちゃんは今頃、何をしているんだろう。
もう戻れないと言われたけれど、もしそれが本当なら死んでしまいたい。生きている理由がない。頑張って生にしがみつく必要がない。
前の方に看板が見えてきた。大きな看板だ。しかも、なぜか蛍光色に彩られていて、夜でもうるさそうな雰囲気がする。
看板には、よく分からないぬいぐるみのようなキャラクターと共に『ネットワークにアクセスしよう!』と書かれている。隣に矢印があった。
その矢印に従って目線を移すと、建物の入り口に人型のロボットが立っていた。近付いてみる。
「こんにちは!ここはプロダイム。ネットワークに誰でもアクセスできる施設です!あなたもアクセスしに来られたんでしょう?どうぞどうぞ、中へお入りください」
ロボットとは思えない流暢な話し方。軽くお辞儀をしながら、奥の方へ掌で促す。もはやロボットなのか、なんなのかよく分からなくない。促されるまま奥へと進む。
「いってらっしゃいませー」
後ろから声がした。

建物に入るとそこは暗く湿っていた。正直、良い感じはしない。不安になってくる。
通路を蛍光色の矢印に案内されつつ歩く。すると、奥に光が見えてきた。白い光だ。それはどんどん大きくなっていき、少しずつ中が見えてくる。

中はドーム状になっていて、天井は高く、横も広い。壁一面が玉虫色のように光り、そこをたくさんの白い線が這い回っている。そして、地面にはカプセルみたいな形をしている機械がたくさん並んでいる。

「いらっしゃいませ!こちらは初めてですか?」
さっきの入り口にいたロボットと同じ見た目をした、人型の何かが話しかけてきた。
「あ、はい」
「そうなんですね!本日はプロダイムへ来てくださって、誠にありがとうございます!初めてでしたら、いろいろと説明が必要ですね!えーっと…」
そう言いながら、タブレットを取り出し、操作し始める。それから、こちらを向いて話し始めた。
「プロダイムは政府公認のネットワークアクセス施設となります!ここでは電脳機器に対応していない方も含めて、全ての方にネットワークアクセスをご提供しております!素晴らしいでしょ?今まで抱えていた苦痛や悩みが全てが解決できる!何とも言えない癒しの時間になることでしょう!ネットワークとは癒しの空間なのです!ぜひ、アクセスしてみてください!いかがでしょう?」
タブレットをしまって、こちらを見る。
「えっと、それって大丈夫ですか?なんていうか…」
「安全性は保証されております!なんていったって、政府公認ですから!」
「あ、そうですか」
「アクセスするためにはあちらのボックスに入っていただく必要があります!こちらへどうぞ!」
よく分からないまま、ついて行く。何個かカプセルのようなものの横を通り過ぎる。その中は少しだけ透けて見えて人が横たわっているようだった。
「こちらのボックスをお使いください!」
案内されたボックスというやつは小さなベッドのような形をしていて、蓋が開いていた。
「仰向けに寝ていただいて、目は閉じていてください!しばらくするとアクセスできますので!」
言われるがまま、横になってみる。
「お帰りの時間は基本的に任意ですが、2日を超える場合は、一旦お声がけさせていただきます!それでは、どうぞごゆっくり」
蓋が静かに閉まっていく。瞼を閉じる。

静かだ。何も起きない。ネットワークにアクセスできると言っていたが、寝ているだけでどうアクセスするのだろうか。政府公認というのがなんだか怪しく思えて仕方ない。

数分、何もない時間が過ぎた。

ゆっくり、変化が始まる。頭が冴えてきて、肩の力が抜けてくる。頭の中で声がする。誰かは分からない。落ち着いた感じで何かを話している。ぼんやりといろんな声が聞こえて来た。みんな落ち着いている。

すると、ひとつの景色が見えてきた。声は次第になくなっていく。瞼の裏に浮かんできたのは、草原のような、緑豊かな場所で、広いところだった。自分は大きな木の下で、木にもたれかかって座っている。どこまでも続く青い空と緑の絨毯。風がさわさわと木や葉を揺らす。
あたたかくて心地よい。木の影にいて、風が吹いても寒くはなく、むしろ清々しい感覚がする。
そうやって景色をぼんやり眺める。
背中を預けている大木の動きを感じる。ゆっくりとした流れが木の中にあることに気づく。根っこから上と登っていき、さわさわと音を鳴らす葉へと繋がる流れを感じる。
目を閉じて、更に集中してみる。
地面のひんやりとした冷たさ、背中から自分を包む木の包容力、気持ちのモヤモヤをさらっていく風、豊かな自然について語る鳥の鳴き声、微笑み合う草花の存在感。
心地よくそれらを感じていると、自分の中にあった苦痛が見当たらないことに気づいた。
死にたい、という気持ちがないのだ。
何かをしているわけでもなく、自然を感じているだけでこんなにも落ち着くなんて。生産性もなく、意味もないようなことに救われるなんて。
目を開けると、緑と青の風景。いつまでも、ここにいたい。とても楽だ。

「おはようございます!2日経ちましたので、お声がけさせていただきました!他の方もいらっしゃいますので、一旦、ボックスから出ていただけますか?」  
自然の中で気付いたら眠っていたようだ。人型のロボットがこちらを見ている。
「ずっと横になっていましたから、急に立ち上がると目眩などを起こす可能性があります!ゆっくりと出てくださいね!ぜひ、こちらの白湯をお飲みください!自覚はなくても喉が渇いていらっしゃるはずですよ!」
ロボットとは思えない滑らかな動作でマグカップを持ってくる。身体を起こして座る。マグカップを受け取り、中身を見る。透明な白湯だ。ゆっくり口に運ぶ。熱い。
「白湯をお飲みになったらご帰宅ください!他の方もいらっしゃいますからね!今回はありがとうございました!またお待ちしております!」
スーッとロボットはどこかへ行ってしまった。

「アクセスしてきた感想はどうだ?」
「なんか、いいところでしたね」
「そうだろうな、お前みたいな死にたがりを政府は探してるからな」
寸胴で可愛い犬が足元にきて、足の甲を踏みながら寝転ぶ。
「死にたがり?」
「言っただろ、『思い当たる節があるんじゃないか』って。死ぬことが恐くない、そんな感情や気持ちを集めて兵士を作ってるんだよ」
「誰がその兵士になるんですか?」
「さぁな。噂では買ってきた子どもなんじゃないかって話だ。この地域でも買われていく子どもがいるらしい」
「そうなんですか。でも、俺、ネットワークにアクセスしたことですごく大事なものを得た気がします」
「そりゃそうだ、死にたい気持ちが無くなるんだからな。その内、楽になれるぞ」
楽になれる。アクセスしてるときくらいの楽さがずっと続くなら、それは幸せなんじゃないだろうか。
明日もアクセスしてみよう。そう思った。


「2年かけて、ようやく分かった。幸せが何か、愛って何なのか」
わたしは握り返した手を力を込めて引っ込めた。
「本当に一花?」
「え?一花やで。見たら分かるやろ」
「見た目は確かにそうやけど。なんか変。一花じゃないみたい…」
「2年かけていろんなことを知ったからちゃうかな、前の俺とは違うかも」
「全然、違う。うちの知ってる一花じゃない」

わたしは荷物をバッグにまとめ始める。
「ゆめちゃん、どうしたん?」
「ごめん、今日はちょっと友達のとこに泊まるわ」
「え、折角、帰ってきたのに」
「ごめん、ちゃんと帰って来るから。ほんまごめん」
立て付けの悪い部屋のドアを雑に閉める。ガチャンと大きな音をたてて、わたしは早足で歩いた。

わたしはバス停に向かって歩きながら、LINEで知宏に連絡をしていた。
『ごめん、今日、泊まらせてくれへん?』
バス停に着く頃に既読がついた。
『どうしたん?急に』
『なんか、上手く説明できひんねんけど、とりあえず家行っていい?』
『ええけど、なんか大丈夫?』
『大丈夫、行ったら話すね』
わたしはバスを待ちながら、知宏の連絡を待つ。最低限の荷物だけ持って出てしまった。これからどうしよう。とりあえず知宏のところへ行って、それからどうしよう。

知宏の家まではバスと徒歩で1時間くらいかかった。マンションの3階にある305号室が知宏の部屋らしい。
インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開く。
「ごめん、急に」
「いや、ええけど。とりあえず入って」
知宏の横を通り抜けて部屋に入る。入ってすぐに洗濯機があり、その目の前にお風呂があった。その奥に六畳くらいの部屋がある。
机の前に座ったわたしを見て、知宏は少し心配してくれているのか、隣に座ると服越しにわたしの背中を撫でた。
「急に泊まらせてって何があったん?」
「帰ってきてん」
「帰ってきた?誰が?」
「いなくなったパートナーが」
「え、そんなことあったん」
「2年前に出掛けたっきり帰って来なくなって、もう死んだんやと思って生活してたら…突然、帰ってきて」
わたしはボロボロと涙を零す。
「でも、帰ってきたんやったら良かったんちゃうの?なんで出て来たん?」
「一花って言うねんけど、名前。見た目は一花やったけど、一花じゃなかってん」
「どういうこと?本人やったんやろ?」
「でも、なんか違うねん。どうしよう」
涙が止まらない。どうすればいいのかわからない。知宏も困惑している。
「帰ってきたと思ったらよくわかんないこと言ってて…あれは一花じゃない。一花はもうほんとにいないんや」
そう言うと更に涙が出てきた。
「これから、どうすればええんやろ。うち、どうしたら…」

「うちの知ってる一花じゃない」と言われたことに、ショックを受けて呆然としてしまった。
取り残された部屋には、久しぶりに会うすいちゃんとねむさんがいる。
「すいちゃん、ねむさん。ただいま。長いこといなくなってごめんね」
部屋は静かだ。
ゆめちゃんにやっと会えたのに、どこかへ行ってしまうなんて考えもしなかった。この2年でゆめちゃんにも何かあったのだろうか。
俺はこの2年でネットワークアクセスを繰り返し、遂に「死にたい気持ち」を手放すことができた。それは本当に素晴らしいことだった。あらゆる生命と共鳴し、自らも自然の一部だと感じることができた。それはゆめちゃんがいつか話してくれた経験に似ている。
憂鬱になると死にたくなっていた自分よりも、今のほうが幸せだし楽だ。ゆめちゃんも隣で死にたがっている人がいるよりも、今の俺みたいな人がいるほうが楽なんじゃないか。なぜ、出ていってしまったんだろう。


気付いたら朝になっていた。目覚めると横に知宏がいた。
一枚の布団に二人で寝ているので窮屈だ。目蓋が重い。泣き過ぎて腫れているのかもしれない。あんまり見られたくない顔だ。
知宏を起こさないようにゆっくりと布団から這い出る。机に置いたスマホを掴んで見てみるとLINEが来ていた。
『ゆめちゃん、早く帰って来てね。待ってる』
わたしはまた泣きそうになった。
スマホを置いて、お風呂へ向かう。鏡で自分を見るとやっぱり目蓋が腫れていた。知宏に見られるのには抵抗がある。
顔を水で洗い、部屋へ戻る。知宏はスヤスヤと眠っている。
「ごめん、ありがと」
小さくそう言って、わたしは荷物を持って部屋を出た。
これからどうしたらいいのかはわからない。けれど、一花が「待ってる」と言っているのを見て、やっぱり会いたくなってしまった。
あの人は本当に一花なのか、一花であるならば何があったのか。何を話していたのか、よくわからなかったけど、聞いてみるしかなかった。
バス停までは徒歩で15分くらいかかる。朝の空気はまだ涼しい。
バスが来るのを待っている間にスマホをポケットから取り出し、一花へLINEをした。
『今から帰る。ごめん』
しばらくするとバスが来た。入って一番近い一人用の席に座る。出勤や通学であろう人たちが乗っていて、朝なのに眠っている人もいる。
こんなふうにして、自分を削ってまで生きていたいのかと考えると、わたしは生きていたくないなと思った。わたしは生きるのに向いていないのだろう。

家に着いたのは朝の7時半頃だった。
ドアを開けるとそこには一花が立っている。
「おかえり」
「ただいま」
わたしは恐る恐る手を伸ばす。一花の手を握り、自分のほうへと引き寄せる。
「ほんとに一花なんやな」
「そうやで」
「わかった」
わたしは手を離し、部屋へ入った。机の前に座って、バッグを床に置く。
「一花、座って」
向かいに座るよう指をさす。一花は言うことに従って座った。
「この2年、何してたん?」
「俺はこの2年で幸せな自分を手に入れてん」
「いや、そうじゃなくて。どこで何してたんってこと」
「詳しいことは言ってもわからへんと思うけど、亜門ってところで暮らしてた。犬とおっさんと。そこで『死にたい気持ち』を手放す方法を知って、ようやく手放せてん」
「なにそれ」
「うーん、なんて説明したらいいんかわからへんけど、とにかく死にたいって言ってた俺はもう過去のことで、今はわりと前向きに生きてる」
「はぁ」
「それでここに戻る術を探すのに時間がかかっちゃって。もう戻れないかもとか言われてたから大変やってん」
「ちょっと言うてることがわからへん」
「そうやと思う。俺が逆の立場やったら同じこと言うと思うし、びっくりするのも仕方ない」
「びっくりするっていうか、なんていうか」
「とにかく帰って来れたし、今は元気になってん」
一花がわたしの両手を握る。
「ごめん、遅くなって。でも待っててくれたんやんな。ありがとう」
わたしはなぜか何も感じなかった。一花は変わってしまった、そう思えてならない。わたしが待っていたのは本当にこの人なのだろうか。
「正直まだ、本当に一花なのかわからへん。なんか変な感じする」
一花の表情が曇る。
「そっか。ゆめちゃんに会えたの、すごい嬉しいんやけどな」
「いや、それはうちも嬉しいんやけど、なんていうか前の一花とは違うから変な感じして」
「確かに俺は変わったよ。でも、俺は俺のままやで。ゆめちゃんもよく言ってたやん、『人は変わり続けるもの』って」
「うん、そうやけど…」
わたしは黙ってしまった。しばらく考える。
「ずっと一花のこと待ってた。けど、全然、帰って来なくて、死んだんちゃうかって思って諦めてた。やけど、一花の物とか処分できなくて、家を引越すのもできひんくて。2年経ったんやで、2年も経った。そしたら急に帰ってきて、ようわからんこと言うて、一花じゃない一花が帰ってきて、めっちゃ複雑で、どうしたらいいんかわからへん」
わたしはまた泣いた。
「泣かせちゃってごめん」
「うちは、ずっと待っててん。だから嬉しいよ。嬉しいけど複雑やねん。なんでなんやろ」
「俺は変わったけど、ゆめちゃんもたぶんどこかしら変わってて、だから急には前みたいに過ごせへんと思う。でも、俺も会えて嬉しいし、できたらまた一緒に過ごしたい」
わたしは涙を止めることができなかった。前の一花も、こんな感じで優しかった。
「俺、ずっとゆめちゃんに負担をかけてたこと悪いなって思いながらもどうしようもできひんかった。隣に死にたいやつがいたら、絶対ストレスかかるやろうなって思ってたけど何もしなかった。でも、今は違う。ゆめちゃんのことも幸せにするよ」


わたしたちは再び共に暮らすこととなった。一花のこの2年間の話はよくわからないものばかりだが、なんか『死にたい気持ち』が無くなったということだけはわかった。
わたしは相変わらず、今の一花に慣れない。一花は前よりも鼻歌が楽しそうになり、意欲も増して、精神的に辛そうな日はほぼ無くなっていた。人付き合いなんてしなかったのに、今は行きつけのバーがあって、少しだけお酒を飲む。帰って来ると、どんな話を誰としたか教えてくれる。

近所にある神社にもよく行きたがるようになり、わたしもついて行くようになった。
鳥居を抜けると丸く切られた垣根のようなものがあり、その奥にまた鳥居がある。真ん中には舞台のような建物があり、その横を通り抜けるとお参りができる。
わたしたちは五円玉をそれぞれ取り、賽銭箱に投げた。
カランカランと音を鳴らした後、お願いごとをする。わたしは目を閉じて願った。

「一花が帰って来ますように」


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