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はじめて物語に触れた日をわたしは思い出せない。

それは物凄くもったいないことだ。いつだって初めての物語の世界に入り、新しい登場人物たちと出会う時、感じるあの晴れやかな気持ちをいつ、感じ始めたのかが分からないから。いつだって初めては特別だ。
初めての物語に触れる時、思わず微笑んでしまうのは、わたしに今まで物語の中で感じてきた喜怒哀楽の感情の記憶があるからだろう。未知の世界に行く時、期待に胸を膨らませてドキドキする、その気持ちは、経験に裏付けられた部分が少なからずあるだろうからである。

初めて物語に入り込めた時は、小学2年生の時、エミリーロッダのフェアリーレルムを自分のお小遣いで買った時ではないし、歯の妖精に本を頼んだ時ではない。(イギリスにいた時は抜けた乳歯を寝る前に枕の下に入れて欲しいものを願う習慣があった)
初めて絵本を読んだ時なのか、母になにかお話を話してもらった時なのか、いずれにしても自分が選んだ経験ではなく、親に与えられたものが大きいだろう。

その意味で私の初めては自分で選んだものではないから、その経験をさせてくれたことは非常に幸福なことだけれど、
あのプレゼントを開ける時のようなドキドキした気持ちの最初を覚えていないのはとても残念なことだ。

この気持ちに名前をつけることはできない。

期待であり、ワクワクであり、気合であり、リラックスであり、安心、幸せ、緊張、ストレス…
ごちゃ混ぜになったこの気持ち。
負であり生である感情はひとまとめにできない。

けれど、わたしが物語、あるいはコンテンツをある意味神聖化してしまうのはこの名付けられぬ気持ちが故である。この気持ちを汚したくない。渡したくない。踏みにじられたくない。他の人にもこの気持ちを感じて欲しい。

だからこそわたしにとってコンテンツは不可侵である。

コンテンツの販売に関わってはや半年。強く感じるのは私にとってコンテンツを俗世の、売れる売れないの世界に置きたくない気持ちだ
このコンテンツは世間受けがいいから、最近売れている傾向だから、そんな杓子定規を本当は手に入れたくなかったし、コンテンツの良し悪しを受け手の気持ちで考えたい。
その葛藤を心の中に抱いている。

同時にコンテンツが売れるということは、世間の多くの人の心に響いていることとも言える。
あるいはコンテンツは売れなければ十分に発信することはできない。売れないからこそマンガの連載が終わり無理やりな展開で物語が終わったら、発行部数が少なくて多くの人には届かない、上映館数が少ないと地方では見れない。

売れるといいのか。
そりゃいい。

当たり前だ。
世間に愛されるコンテンツは沢山の機会を与えられるし、映画になったりグッズになる。

反対に無理に第2編がつくられてがっかりすることもある。

私には今、売れないとできないこと、売れると良いこと、売れると失われること、それらごちゃまぜにぐるぐるして、わたしの名付けられぬ気持ち、コンテンツへの愛を踏み詰られている気がする。

わたしの気持ちは
物語がたった一人に愛されればいいのか、たくさんの人に愛されればいいのか(=売れればいいのか)
その大きな問題が根本にあるのだろう。

売るということはなぜ、無機的印象を与えてしまうのだろうか。

思い出すのは、「リップヴァンウィンクルの花嫁」の真白の言葉。

「この世界は本当は幸せだらけ」、「優しい人たちだらけ」、「私にはその幸せが耐えられない。だからお金を払う。お金ってそのためにあると思うの」

優しさを受け止め切れないからとお金を媒介として使いはじめたはずなのに、むしろ間接的なゆえに失われてるものもある。

武器ももたず素っ裸で丸腰で物語を、受け止める方法はないのかぐるぐると考え続ける。


何も持たぬわたしですが、全力であなたのサポートを活かした「なにか」をします!いまはわたしが沢山の知識と文化とアイデアと記憶を吸収するために使います!