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#2022年の問い① 「なぜ本を読むのか」

2022年は、スタート時に年始の目標を表明するのを辞めて、そのかわり年末年始の時間で「考える」をやろう。

実はあらかじめ、そんな計画を立てていた。毎年、年始は目標を掲げたり振り返ったりをSNSやらブログやらで表明していたのだけれど、なんだかその流れを変えたくなったのだ。(みんなやってるしね)

で、そのために昨年の12月はもっぱら「考える時間に考えたいこと」を付箋に書き出しておいた。「本当にやりたいこと」「やらないと決めること」などベタな問いから「好きなこと」「無駄だけどやりたいこと」など、排除してきた自分の欲望を掘り出すものまで、21個くらい。

A4ノート一冊潰すくらいには結構いろいろと考えたのだけれど、中でも「なぜ本を読むのか」について自分でも意外な結論に至ったので、書いておくことにする。

趣味を「意識高い」って言われるのが恥ずかしい

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私の2021年の趣味は、読書と短歌とヨガだった。そういう話になると、決まって「意識高い!」と反応される(短歌以外)のが地味に気になっていた。(短歌以外っていうのもね、なんかね。)

べつに「意識高い」という言葉に苦手意識はない。むしろ意識高くありたい。だけど読書に関しては、単純に意識高くやってないから、そう言われるのが恥ずかしいかった。私の中で読書は、スノボーやゲーム、パズル、漫画とかと同じ類の「趣味」だから。

だから去年友人に「読書が趣味とか偉いね!」と言われた際、「全然偉くない種類の読書だよ!」という妙な返しをしたのだけれど、その友人は読書=勉強だという意識があったらしく「じゃあなんで本を読んでるの?」と聞かれた。

たしかになんで本を読むんだろう、と思った。もし私が小説しか読まないなら、漫画や映画が趣味の人みたいに「物語が好きだから」とか言えるのだろうけど、私が読む本は自己啓発からビジネス系、哲学やエッセイ、人類学から心理学まで幅広い。

文章を書く仕事のためっていえばそうなんだけど、いつだって自己成長したいと思っているわけではないし、仕事のために読む本と趣味で読む本はなんか違う。... なにが違う?

私はなぜ本を読んでいるのか

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ちょっと脱線するけど、趣味は仕事でやっていることと正反対のことがいいらしい。たとえばヨガはそうだ。普段、取材で人と話したり、座りっぱなしで記事を書いたり読んだりしている私にとって、自分の呼吸だけに意識を向けて体を動かすという行為は、いろんなものから開放される快感がある。

でも読書って、ある意味仕事でやっていることとかなり似ている。編集の仕事しかり、ライターの仕事だって、半分以上が読むことと理解することでできている。

私はなんでプライベートで本を読んでいるんだ?

ちょっとマジで分からなくなったので、プライベートで読むような哲学やエッセイ、対談をパラパラとめくってみた。

そして哲学からなにを得ようとしているのかをノートに書きなぐってみた。

次にエッセイでどんな気分になって、それが自分に何を与えているのか。そもそもどんな本を選んで、どんな本に満足して、どんな気持ちになったのかを考えて、書いて、考えて、書いて、書きまくった。

そしたら不思議と、統一感のないそれぞれのジャンルの目的が見事に一致した。

それは「自分探し」だったのだ。

読書=自分探し

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そういえば私は自分探しが好きだ。大好きだ。

自分探しの旅なんてもう何度もやったし、日記は10年以上毎日続けている。自分について気づいたことや興味のあることを書き留めるノートも10年以上続けているし、手帳にも細かい気付きが書き込まれている。ひとりの時間も大好きだ。もちろん自分探しをしている人も大好きで、旅先のシェアハウスで自分探しをしている人と片っ端から仲良くなるのが密かな趣味だったこともある。

で、読書で得たいものや楽しいと感じるポイントを掘り起こしたら、すべて自分探しに繋がっていたのだ。たとえば哲学や人類学、心理学の本を読んで私が面白いと感じるのは「普遍性」。人間の普遍を知ることで、あらためて自分がどういう人間なのか、というかそもそも「人間」ってどういう存在なのかを知ることができる。

自分探しにしてはやけに遠回りだと思われるかもしれない。だけど、ある時期から私の中には、自分探しの前提として「私らしさなんてものは、実在しないのではないか」という疑問がある。

「私らしさ」が存在しないと思う理由

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私には日本人とか、香川県出身とか、うさぎ年とか、B型とか、ミレニアム世代とかゆとり世代とか、母子家庭が長かったとか、生まれながらの属性がいっぱいある。

だけど、もし私がアメリカ人だったら?江戸時代に生まれていたら?A型だったら?もしくはA型だと聞かされて育っていたら?親がいなかったら?私は今と同じ思考をして、同じものを見て同じ感情を抱いているだろうか?それでも「書くことが好き」「読書が好き」だと言っているのだろうか?

以前、あるTV番組で専門家が話していた実験が印象的だった。それは「生まれたばかりの子どもに一切話しかけず、ご飯などの生きるために必要なものだけを与えて育てたら、すべての子どもが成人するまでに死んでしまった」というものだ。人は何からも影響されず、自分らしさを自分で育むことは不可能なのだと知った。

逆に言えば、今の私は誰かや何かとのコミュニケーションでできている。対人や環境、言語やニュースで流れる一言一句、それらに影響を受けたのが今、自分が「私らしい」と思っている私自身なのだ。そしてそれは、これまでほぼほぼ無意識で形成されてきた。

だけどこれからは、何から影響を受けてどんな自分になっていくか、ある程度コントロールできる。私はそれを、読書で成し遂げようとしていたんじゃないだろうか。

哲学や人類学、心理学から普遍を学び、エッセイからしみじみとした人間らしさを感じ取る。戦争や歴史から、人の愚かさや儚さ、無意識の操作されやすさを知り、自分にもそういうところがあると自覚すること。アート本や文芸誌を読んで、自らの美意識を育むこと。そのすべてが自分探しの基盤作りであり、なにから影響を受け取るかの選択でもあった。

すっきりしました

「なぜ本を読むのか」という問いから、自分が非常に自分探し好き人間だということが知ることができてよかった。今気づいたけど、哲学の面白さって「問い方」を学べるところでもある。それも自分探しに繋がってるなぁ。これからは自分探し大好き人間として生きていきます。

余談だけど、 #2022年の問い というハッシュタグをつけてみたのは、ちゃんと「問う」ことを習慣化したいなと思ったから。コメント欄にて「問いネタ」も受け付けています!


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