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勉強は役に立たないのか、学校が役に立たないのか。

昨日、ぼけーっとツイッターを見ていたら、「学校の勉強」というワードがトレンドにあがっていた。見てみると、以下の内容のツイートがあった。

あれ、そういえば、ちょっと前の記事に「学校の勉強は役に立たない」みたいなことを書いた気がするなと思い、読み返してみたらこんなふうに書いていた。

学校で教えてもらってきた多くが、社会に出て役にたつことはない。言うならば、学校は大学に行くためのものだなぁと思った。大学に行くのは、良い就職先を見つけるため。良い仕事に就くため。もちろん、それが悪いことでないのだけど、この場合の仕事とは何を指しているのだろうか。

ああ、「教えてもらってきた多くが」と書いたのか。わたしが言いたかったことは学校の勉強が役に立たないという意味ではない。どちらかというと、次のツイートに近い感覚だ。

いまでも、「学校は大学へ行くためのもの」と感じている。学校で経験するなかのいくつくらいが、自身の役に立っているだろうか。

学校の勉強で役に立ったと思うことは、世界の仕組みを知ったこと、そして、勉強のやり方を学べたということ。だから「学校の勉強が全部役に立たない。」ということはない。多くのことは不要になるかもしれないけれど、勉強をしてきたこと自体が不要になることはない。

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学校で教えてくれることが役に立たないと思ってしまった理由ーー簡潔に言えば、「合わない高校を選んだから」ということに尽きる。小学校はとても楽しく通っていた。中学校はおもしろくはなかったが、まあ、通えていた。カーストに辟易はしていたが。

高校は毎日遅刻をし、ダラダラとつまらない毎日を送っていた。本当につまらなかった。どこを向いても恋愛の話しかしてない。そんな高校に来てしまった。公立高校は市内に3校しかなく、公立しか無理だと親に言われ、消去法で選んだ普通科の高校。偏差値は45くらいだ。入れるところに入った、という感じ。

本当に楽しくない。まるで中学校の延長だ。楽しいのは、部活だけだった。いまのわたしの原点となっている新聞部だ。そんなつまらない日々だったが、勉強はしていた。テストの成績は決して悪くなかった。

テストの成績が基準かよ!と突っ込まれたくないから、自分で自分をフォローするが、自習用ノートを作って宿題以外にも興味のある分野をまとめたり、好きな分野や内容に関して掘り下げて勉強をしていた。

つまらなかったのは、授業がだるかったから。大半の、おもしろくもない先生の解説を聞いて、それを覚えるという行為がとてもしんどかった。だから、ごく少数のおもしろい先生の授業にだけ、間に合うように出席していた。あと、好きな教科。

現代文、地学、生物、音楽、政治経済、倫理、そして無駄だと言われがちな古文と漢文と。文法にとても興味を持っていた。しかし、算数や数学は、正直、小学生程度で止まっているほど苦手だ。高校では教科が選択制だったため、数学関連は全部外した。物理なんて、もってのほかだ。

日本史や世界史は、まったく覚えられなかった。大人になってから気づいたのだが、太古の昔から現代に向かって学ぶのではなく、逆ならばマシだったかなと思う。原因と結果は、結果から学ぶほうがすんなり入ってきやすいタイプだ。だから、歴史が近代から遡る形で学べたなら、結構楽しめたんじゃないかと思う。あのとき気づいていたら、単元内だけでもそういう風に勉強したのだが。

何年に起こったかまで覚える必要などもなく、このような流れで歴史が紡がれてきた、という史実を学べるのが歴史の本質な気がする。だって、昔と今で変わってるものもあるでしょ?

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自分の高校生活を振り返って残念だなと自身で思うのは、つまらない中でも、もう少しがんばればよかったなと思っているところだ。つまんないつまんないと毎日通うよりも、何か少しでも楽しくできる工夫をすればよかったなと、今でも思う。

でも、でも、それでも、つまらないけど努力をして、好きな教科のときだけちゃんと出席していたのは、当時の自分ではがんばってきたのだろうと思う。

自分なりに頑張ってきた子どもに、もっとがんばれよ!というのも酷だ。

「義務教育を受けた」からかどうかはわからないけれど、勉強が大切だということはしみじみ感じている。実際、世の中の評価システムが学歴に偏っていることは確かだし。そして、大人になってから思うのは、勉強はできないよりできたほうが圧倒的に人生は楽しくなる、ということ。学びのある人生は、楽しい。

だが、そういう感覚と学校が、学生時代のわたしの中ではうまくリンクしていなかったのだと思う。

学校の、特に中学校までの勉強は直接役に立つ感覚はなくても、知っていて損はない内容になっている。知っていれば、世界の仕組みがわかる。世界の解像度が、ぐんと上がる。大人になってよくわかった。

「勉強は楽しい」「知ることは楽しい」そういうことを学校が教えてくれたら、きっと、「学校の勉強は役に立たない。」と言ったツイート主も、学校の勉強が役に立たないなんて言わないんじゃないだろうか。

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自身の内容に戻るが、「学校で教えてくれたものの大半が役に立たない」というのは、(言語化が難しいのだけど)勉強が役に立たないというのと同じではない。

きちんと言葉を選んで書くなら「"学校"が人生の役に立つことはない」だなと思った。行かなくてもなんとかなる。でも、勉強は必要だ。

学校に行かなければ詰んでしまう日本のシステムが、いつまでたっても「学校」と切り離せない人生を作り出してしまうねじれを生んでいるような気がする。

「学校での勉強が役に立たない。」と、現役の学生がそれを言っていることに、問題意識を持つべきじゃないだろうか。年齢を重ねた大人が「勉強が役に立たないって言ってるやつは人生オワコン」といった強い言葉で反論するのではなく、その子がどうしてそのように思っているのか、大人は、それを受け止めて、現在の学校がどのような場所になっているのか、親でなくても目を向けてもいいのかもしれない。

ただ一つ思うのが、「じぶんがこうだったから、お前もこうだろう。」とか、「じぶんができてきたんだから、できなかったやつがおかしい。」というような、そんな視点で「できないやつは人生オワコン」と言っているのなら、学校の勉強は役に立たないこともあるんだな、と皮肉めいた目で見てしまう。

話を戻そう。

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不登校の子どもを抱えると、学校のあり方とは必然と向き合わなければいけなくなる。学校がもっとこうだったら…!こういう対応ができるのなら…!そう思うことはたくさんある。

学ぶことは「学校」でなくてもいい。でも現状日本は、基礎的な学習を公的に受けられる機関が「学校」しかない。不登校になったからといって、そのほか様々に存在しているであろう不登校支援と、すぐにつながることはできない。

つながったとて、学校と同じような内容で、進捗で、値段で、学習を進めることはなかなか困難だ。

学校は学習に合理的なシステムだと豪語している人がいると、では、そこからこぼれてしまった不登校はどうすれば良いでしょうか?と投げかけたくなる。公的な学習機関が学校という制度しかないから、困っています、と。

投げかけたとて、わが家の不登校問題は何も解決しないし、相手にとってはきっと「知らんがな。」だろうから、スマホの画面を指で滑らせる。

学校なんて、卒業したら思い出すこともないだろうし、どうなっているかなんて、親になるまで知るよしもないし、躓かなければ、ありかたを考えることなんかも、ないだろうからね。

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最後に、少し気になってしまうことを書き留めておこうと思う。

「学校の勉強が役に立たないと感じる人はダメな人だ。」

というツイートをみて、困惑している不登校の子たちがいないかどうか。もしいたとしたら、気にしなくていいということを伝えたい。

だけど、学校で触れる多くの内容が、あなたに何かをもたらすことは間違いない。興味だったり、関心だったり、好奇心だったり。学校に行かないということは、それらを得る機会が減ってしまう、ということだ。

だからこそ、「学校」で教えてくれる学習内容を、学校で触れる様々なことを、自宅でやることを諦めなければいい。

学校は、もうあなたの人生の役に立たない。学校と勉強と人生をこれ以上強く結びつけて苦しむ必要はないと、わたしは思う。


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