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『モモ』を読んで思い出すあの頃のこと

 ミヒャエル・エンデ作の『モモ』に興味を持ったのは『三十五歳の少女』というドラマがきっかけでした。主演の柴咲コウさん演じる望美のお気に入りの本が『モモ』で、よく作中に登場していたのです。私はこのドラマを観ている間、『モモ』を読んでみたいなぁとずっと思っていました。ずっと思っていたのにもかかわらず、実際読んだのが先日のことです。あはは。
 ちなみに『三十五歳の少女』は2020年放送のドラマ。読むのが随分と遅くなってしまいました。

町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気持ちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります……。「時間」とは何かを問う、エンデの名作。

『モモ』裏表紙より


 この物語は、主人公であるモモが灰色の男たちによって盗まれた、町の人たちの「時間」を取り戻すお話です。
「もしかしたら灰色の男たちに時間を盗まれていたのかも……」という時期が私にもあります。その頃の自分と重なった登場人物が、床屋のフージー氏です。
 フージー氏はお金持ちでも貧乏でもなく、自分の仕事に満足しながら幸せに暮らしています。でもときどき、こうも考えるのです。

「おれはなにものになれた? たかがけちな床屋じゃないか。おれだって、もしちゃんとしたくらしができていたら、いまとぜんぜんちがう人間になってたろうになぁ!」

『モモ』p85より


 そんなフージー氏の思いに漬け込むようにして灰色の男は現れ、言葉巧みに時間の節約を促します。節約された時間を灰色の男たちは盗むのですが、フージー氏はそのことを知りません。なので言われた通りに時間を切り詰めていきます。そうなると仕事は楽しめず、自分のためのゆっくりとした時間も持てず、やがて怒りっぽくて落ち着きのない人になっていくのです。

 これはまさに、うつ病になる前の私のようです。
 二十代の私はしがないフリーターでした。仕事は楽しいけれど正社員になりたいと思ったことはなく、実家暮らしだったのでお給料にも不満はありませんでした。正直フリーターのままでも私は満足だったのです。しかし、これから三十代、四十代と年齢を重ねていくなかで、ずっとアルバイトのままでは世間に笑われてしまうのではないか、という思いはありました。

時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。

『モモ』p106より

 二十代後半の頃に始めた仕事は、技術を修得する必要があり、仕事の合間をぬって練習をし、家に帰っても勉強、練習、勉強、練習……の日々でした。技術を磨けば手に職が持てるし、ゆくゆくはそこで正社員登用を目指そうと考えていたので、楽しさよりもただ必死でした。
 身内が亡くなっても悲しむ暇がないほど、立て続けに試験の予定も入っていました。仕事が忙しくても試験のための練習と勉強を疎かにはできません。眠れない日が続き、しんどいと感じていても、ここを乗り越えれば私は“ちゃんとした”人間になれるのだと踏ん張ろうとしました。ところがある日、うつ病が発覚。仕事を続けられる状態ではなかったので辞めることになりました。
 頑張った結果がこれか……とこのときの私は人生に絶望したものです。

 今思えば私は、自分を労るというあのとき最も必要だった時間を削っていたのでしょう。
 だから少しずつ心の余裕を失っていったのです。余裕がない、いっぱいいっぱいな心は些細なことへの苛立ちと悲観で荒れます。
 フージー氏も同じだったのではないでしょうか。穏やかな自分のための時間を切り詰めたせいでどんどん気持ちがピリピリとしていったのだと思います。

人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはならない。だから時間をぬすまれないように守ることだって、じぶんでやらなくてはいけない。

『モモ』p236より

 私はあのとき、自分の時間を守ることができませんでした。
「何かを成し遂げなければならない」
「何者かにならなければいけない」
 そんな思いばかりで肝心の“何か”が空白のまま焦って突っ走り、“今”に目を向けることができなかったのです。

 今の私には、特に夢や目標はありません。夫との平穏な毎日をただ満喫しています。

 お茶を飲みながらぼーっと窓の外を眺めたり、夫とお昼寝したり、夢想に耽ったり。あの頃の私なら無駄だと切り捨てたかもしれないそんな時間こそ、心を豊かにし、心を守ってくれる大切な時間なのではないかと思うのです。

「いちどきに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな」

『モモ』p53より


 美しい時間の花を奪われてしまわないよう、『モモ』の物語をずっと心に持ち続けていたいです。



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