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源氏物語エッセイ「彼女たちの声」

「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」。

 六百番歌合の判詞として残る藤原俊成の言葉が、ずっと耳に痛かった。歌を詠み始めて約三十年間、源氏物語をきちんと読んだことがなかったからだ。(幾つかの漫画などで概要は知っていたが)。

 しかし来年2024年のNHK大河ドラマが紫式部の生涯を扱う「光る君へ」であることから、放送が始まる前に今年こそは源氏物語を通読しようと決意した。

 といっても原文では歯が立たない。数ある現代語訳の中から私が選んだのは『源氏物語 A・ウェイリー版』(左右社、全四巻)だった。百年ほど前の英訳を現代日本語へ戻したもの。翻訳者は俳人で評論家の毬矢まりえ・詩人の森山恵。二人は姉妹である。シャイニング・プリンスであるゲンジ、その父親エンペラー・キリツボなどの表記が新鮮で、「ワードローブのレディ」に「更衣」、「カーテン」に「御簾」、「リュート」に「琵琶」など漢字のルビも多用されている。懇切な訳注とあいまって、千年前の源氏物語の世界と百年前のヨーロッパ文化を同時に味わって陶然とした。クリムトの絵を使った装丁も華やかで美しい。

各巻末に、瀬戸内寂聴やヴァージニア・ウルフなど様々な人物による源氏物語についての文章が収録されているのも興味深かった。

 感想をSNSにアップしたところ、翻訳者の一人である森山恵さんから


「冨樫さんは短歌人の同人なのですね。わたしは有沢螢さんに『源氏物語』もお習いしたのです。先生のスピリットも生きているかもしれません」

X(twitter)

とコメントをいただいたのも嬉しい驚きだった。

 さて、ウェイリー版を読了して、にわか源氏物語ファンになった私が次に手にしたのは大森静佳歌集『ヘクタール』(文藝春秋)だった。源氏物語へのオマージュ連作「光らない」五十四首が収録されているのを知ったからだ。

 たとえば、

  夜が明けて雲に呼吸のもどるころふたたび羽織るこのカーディガン

『ヘクタール』

 の「カーディガン」は、空蟬の残した衣のことだろう。この連作以外のところにも、

  夕顔は消えてしまったひとの名だ 喉もとに呼び捨てるしかない

『ヘクタール』

 という源氏物語を思わせる歌があった。

 さらに、「光らない」の初出が掲載されている『文藝』2020年夏季号(河出書房新社)も取り寄せた。この号では「源氏! 源氏! 源氏!」という特集が組まれている。

河出書房新社の「日本文学全集」が完結したことを受け、そのなかで源氏物語を現代語訳した角田光代へのロングインタビューを中心にした特集だ。大森の連作以外にユルスナールによるトリビュート小説などを収録。「夢浮橋」の翻訳十種を読み比べることもできた。ぜひ角田訳やその他の現代語訳も通読してみたいと思わされる内容だった。そしていつかは原文も……。

左右社のウェイリー版源氏物語は、ウェイリーが省略したものも含めて物語中のすべての和歌の原文を収録している。和歌こそが登場人物の、とりわけ女君たちの声を伝えてくれているように思われる。

 女君の中では末摘花が好きだ。野暮ったいけれど誠実で真面目な人柄が良い。しかし末摘花は和歌が古くさく上手ではない。「唐衣」を多用しすぎて源氏から、

  唐衣また唐衣唐衣かへすがへすも唐衣なる

『源氏物語』〈行幸〉

 というひどく思いやりのない返歌を贈られたほどだ。

 それにしても、夥しい数の登場人物に成り代わって、パーソナリティや場面に相応しい和歌を詠んだ紫式部にはつくづく感服する。

※初出「短歌人」2023年10月号【談話室】

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