見出し画像

完璧主義から卒業した話

持って生まれた気質なのか、育った環境なのか、完璧主義だった私。今もまだ何パーセントか残っていて、時々顔を出そうとしてくるんだけど。

幼いころから「きっちりしなさい」と育てられた


特に母から言われ、また、母の母も「きっちりしなさい」の人だった。
時代がそうだったのかもしれない。

それについて、苦しさを感じることはなかった。
それが私には当たり前のことで、特にがんばらなくてもできたから。

だから、母も、「きっちりしなさい」とは言うものの、ガミガミいつも厳しくされていたわけではなかった。お母さんにおびえて過ごしていたわけでもない。

「きっちりしなさい」のおかげで、何事にも「きっちり」最後まで粘り強く頑張ることができた。「きっちり」丁寧に仕上げることもできた。

良いこともたくさんあった。

「きっちり」の悪い面が出始めたのは子育てし始めてから


なんでも「きっちり」しないと気持ち悪いから、

「きっちり」離乳食の量を量った。
「きっちり」家事をこなした。
「きっちり」するよう子どもたちにも教えようとした。
「きっちり」なんでもできる母を目指した。

「きっちり」が自分を苦しめた。

今までは、「きっちり」してきたことが、学校の成績、大学合格、就職、という形で評価されてきたから、満足という感情を得られていた。

ところが、子育ては誰からも評価されない。
しかも、子どもたちは私の思うとおりに「きっちり」になんてならない。自分が頑張っても思い通りにならないのが子育て。

離乳食は食べてほしい分量食べてもらえないし、
4人の子どもたちのわちゃわちゃには「きっちり」なんて声も通らない。
家事を「きっちり」しすぎて疲れ果て、「はて?私って何者?」と思う次第。
私の思う「きっちり」やるべきことができない子どもを受けいれられず、よくイライラしていた。

「きっちり」することに執着しすぎて、本当はどうしたいのか?を見失っていた。

本当はただ、子どもたちや自分の幸せを願っているだけなのに。

ヨガに出会い、ヨガ哲学を学び、自分の内側を見つめることを教えてもらった。
自分と違う生き方の人たちに出会い、自分の視野が相当狭かったことに気づかされた。

もう「きっちり」はやめよう


とは言え、長年染みついた思考癖を変えるのは時間が必要だった。でも、少しずつ私のかたいかたい心がほぐれていった。

自己肯定感についても学び、自分を大切にすることの大切さが今まで以上にわかった。私にとって、「きっちり」を求めるのは、自分にやさしくないなって気が付いた。

かなり生きやすくなった。
本当はもっと自由がほしかったなって思った。

2度海外に暮らしてみて思ったこと


すべての海外に当てはまるとは言えないと思うけど、いい意味で力の抜き方をよく知っているな、ということ。
仕事は仕事。自分の人生もしっかり楽しむ余白がある。長期のお休みを取るのも普通。社会のつくりがそうできるようになっている。

日本は・・・。今は「ライフワークバランス」の言葉があるから昔よりは「仕事仕事」な感じが低くはなってきていると感じるけど、それでもまだまだだなって。1週間のお休みをとるので精いっぱい。オーストラリア人に言ったらびっくりされる。社会の制度、まわりの雰囲気が、そうできるようになってないって感じる。

でも、一方で、戦後の日本からここまで成長できたのは、日本人が「きっちり」やることをやって頑張ってきたからなんだとも思う。

「きっちり」やって経済的に豊かになった。信頼も得てきたんだと思う。でも、幸福度はどうだろう?

2022年の幸福度ランキングで日本は54位


「きっちり」を追い求めすぎて窮屈になっているんじゃないかな?

「きっちり」時間通り来る電車。
「きっちり」届く宅配便。
「きっちり」いつでも開いているコンビニ。

とても便利でありがたし、日本にいるときはそれが当たり前だった。当たり前すぎて、「きっちり」じゃなかったとき、それに対して寛容に捉えることができなくなっているように感じる。

「きっちり」。良いこともあるんだけど、行きすぎると苦しいのを知ってるから、私は「適当」に乗り換えました。

長文、お読みくださりありがとうございました♡

幸せになるために。「自分を知るワーク」とフィードバックをプレゼントしています。↓

*参照

https://worldhappiness.report/ed/2022/happiness-benevolence-and-trust-during-covid-19-and-beyond/





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?