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読書がキライだったわたしが32歳の育児中に読書が好きになって習慣化した理由

わたしは生まれてから32年間、「読書」という習慣がほとんど無いまま大人になりました。
それが子育て中の現在、「読書」はわたしにとって無くてはならない習慣になっており、生きていく上でこんなにも身近に自分を助けてくれて豊かにしてくれるものが他にあるだろうかとすら思うように。

読書暦は6年目。
32歳で1人目の子が9か月の頃、絶賛子育て期に読書のおもしろさを知りました。
その後2人目3人目と続けて出産し、38歳になる現在も子育ての比重がまだまだ大きい日常。
なので6年間の中でほとんど読むことができなかった期間ももちろんあるし、読む時間や量は決して多くはありません。
「年間に100冊読みます!」とか、「この作家の著書はほとんど読んでいます!」
といったいわゆる「読書家」と名乗るには気が引けるし、そこはまだまだ未熟者で初心者という意識が強いです。

だけど、「本を読むことが好き」という点では確固たるものがある。

そのきっかけになった事とこれまでのわたしの読書にまつわる変遷をここにまとめておこうと思います。

読書がキライだった子ども時代

小学生の頃から、わたしは読書がキライだったし苦手でした。
幼児期は、母がえらんで買い集めた絵本を父が毎晩読んでくれていたのを覚えているし、実家の本棚には当時の絵本がそのままたくさん残っています。
今でも好きだった絵本は覚えているし、読んでもらっていたときの楽しくワクワクした情景も思い出す事ができる。
そんなわたしが小学生になって本を読むことがキライになった原因は何か。

それは宿題「読書感想文」にあります。

もっと言うと、当時の学校教育とわたしの性質のかけ合わせが生み出していた思考癖によるものだと思っています。

わたしが小学生だった90年代当時の学校教育はまだ、何事にも正しい「答え」がありその答えをひたすら覚えるといった風潮が当たり前の時期。
わたしは純朴にその教えをきくような、いわゆる「いい子」タイプでした。

なので学校では、自分の素直な感覚に意識をむけることや、自分の頭で考えるということ、自分の正直な感情や意見を表現する機会があまりなかったように思います。
先生の言う通りにすること、正しいとされることや答えを覚えること、それをがんばること(精神論的に)が良いことだと思っていたし、それが評価される事だと何の違和感もなく心得ていました。

家では感情的になることやわがままを言う事がけっこうあったので、外面がよい反面そこで抑えていたものを家庭で受け止めてもらっていたんだろうなと今となっては思います。

読書感想文は、自分が読みたい!知りたい!といったきっかけと結びつかないまま、「読まなければならない本」として存在した本を読み、期限内に感想文をまとめて提出しなければならない義務的なものとして、小学生のわたしの中のストレス要因でした。
そして、自分の気持ちを言語化することや、ましてやそれを感想文として文章にまとめるなんて大人になった今でも難しいと思うのに、当時はどうしていたんだろう。
やはりなんとなくその感想にも「正解の感想」のようなものがあって、どこかで見聞きしたような評価されるような感想を拙いながらにがんばってまとめていた、そんな気がします。
当然そこには楽しさなんてものはなく、それが6年間続いた挙句、読書嫌いにつながりました。
嫌いなことをわざわざ宿題以外で好き好んでやる訳がありません。本を読むきっかけや技術も育たないままでいたことが「本を読むことが苦手」という意識も生み、読書はどんどん敬遠されるものとなっていきました。
学生時代も、読んだものといえば好きな芸能人のエッセイや雑誌、たまに自己啓発系の本を手にとる程度で、日常に「読書」はありませんでした。

読書に対する「あこがれ」はあった

学生時代から社会人の7年間ほど、わたしは名古屋で暮らしていました。
その当時、地元では触れられることがあまりないオシャレなcafeなんかもそこにはたくさんあって、そんなcafeを巡ることが好きでよくやっていました。
「cafeでコーヒーをのみながら本を読む人」
その佇まいや雰囲気に対するあこがれはものすごくありました。
他にも、「あったかい部屋でコーヒーとおやつを用意して、お気に入りのブランケットをひざにかけて読書する感じ」とか、
わたしの中で、それを想像するととてもワクワクする気持ちがありました。
ところが、肝心の「読書」がわたしと結びついていないがために、想像で終わってしまうという。
あこがれる気持ちのままに、なんとなく小説を買って読んでみたこともありました。だけど、カタチから入ったその本は読んでも眠くなるだけでまったく頭に入ってこず。その読書時間が楽しいとも思えず、結局ぜんぶ読むこともなくその本は放置される結果に。
この本を読みたい!読んで何かを得たい!という動機と結びついていないので当然かなと今なら思います。

「読書」に興味をもったきっかけ

このように子供時代~社会人時代を経て、そんなわたしが読書に興味をもつきっかけとなった出来事がありました。
冒頭に書いた32歳の時、夫が1冊の本をわたしに薦めてきました。

この本がわたしの人生にとても大きな影響を与えてくれることになるとはその時は思ってもおらず。
夫が大きく刺激を受けた本がいったいどんな内容なのかという興味と、タイトルを見て、何を手にすることができるんだろう?ということがとても気になったのが読んだ動機です。

ちょうど息子の離乳食や眠るリズムもすこしづつ安定してきていた時期で、夜の寝かしつけた後に読む時間をつくることができたり気持ち的にも少し余裕があった頃。薦められたタイミングもよかったんだと思います。

これまで生きてきた中で1冊の本を全部読むことすら危うかったわたしが、読みながらものすごく腹落ちしていき、読了したときには「読書」に対する意識がかわり、なんと、「読みたい!」という気持ちが沸々とわき起こったのです。

「なぜ本を読むといいのか」というその本質がまとめられた1冊。
これまでの時代と、現在、未来の社会の変化の中で今まさにどう読書が生かされていくのかといった内容がベースにあり、
著者の藤原和博さんが「読書が人生の中でこんな風に役立った」という具体的エピソードや、
本嫌いでも読書習慣が身に付く方法などが書かれていました。

わたしが読書をするようになって手にしはじめたもの

この本を読んだ当時、自分がこの「社会」の中で生きているという感覚が恥ずかしながらほとんどありませんでした。視野がものすごく狭くあさはかだった。

そして、小学生の頃のエピソードにも書いた通り、わたしは調和的なところがありました。主張することや対立することが苦手な調和タイプゆえ、まわりの意見に合わせることや、正しい、良い、とされることのニーズに応えることばかりが先行していました。

そんなことを背景に経験してきた「困りごと」は子ども時代も大人になってからも実はたくさんありました。今でもまったく無いわけではありません。

それが、「読書」を通じて

あらゆる困りごとの解決への糸口
自己理解を深めることや自己肯定につながる糧
視野が広がるための知識や学び

そんな事が得られるだけでなく、そこから意識の変化や行動すること、あらゆる事の「変化」につながっていきはじめたのです。

本来の「調和」とは、ただ合わせる事ではない。
自己理解があるうえで自分なりの考えを持ちながら
社会や他者とのつながりの中でそれぞれが尊重しあうこと。
そして互いがより良く更新していくことだと今は思うようになりました。

自分の幸福論を築く


世の中の流れ的にも、今は一人ひとりが自分の幸福論を築いていく時代。
わたし自身の幸福論はもちろん、今のライフステージでは、家業のことや、正解のない子育てに対しても情報に翻弄されることなく大切に育んでいきたいものがあります。

今は検索したら大概のことはわかるけど、それはあくまでも「情報」であり、「きっかけ」に過ぎません。そしてそれが自分の「答え」ではない。
そこで得たものを「点」としてもっておきながら、その点と点を結びつけて自分の「線」を描いていくための「編集力」が必要です。
そしてまた、その編集の質を上げるためには、物事を色んな視点・視座からみる「複眼的な思考」を鍛える事が大切です。

そう、
知識を深め、視野を広げ、感性を育む読書はそれらにうってつけの方法だったのです。

今はその点と点がつながっていく感覚が少しわかるようになってきました。

そしてまた、
素直な感覚に意識をむけること
自分の考えを持つこと
それを更新していくことことが読書とともに習慣になりました。

これからの読書ライフに夢見ていること

38歳の現在。
わが子は3歳・5歳・7歳とまだまだ手がかかる年頃です。
本を読む時間を捻出するだけでもまだまだ一苦労で、その為の試行錯誤もしています。
そんな中、子どもたちの成長とともに本当に少しづつですが時間は作りやすくなってきているように感じます。
来年は、再来年は。。と想像すると、今よりも時間をつくることができるかなという期待に胸が高鳴ります。

読書から派生して、本を読むお供としてのコーヒーやカップのお気に入りを増やすことや、アロマや香りをつかって読書時間を前向きなマインドセットにすること、本棚をつくることなど、読む時間を有意義にするための「ツール」に目を向けていくことも今後はしていきないなと夢見ています。

読書に出会えて本当によかった

大人になるまで本を読んでこなかった事に後悔の気持ちはありません。
ただ、もし本を読んでいたらまた全然違った今の自分があっただろうなとは思います。
それくらい、「読書」が与えてくれる影響は大きいと今ならわかる。
でも、なんでもそうですが、「タイミング」が大事で。
色んな困りごとを経験して、人生のライフステージにも変化があって、自分に響くちょうどよいタイミングで夫が本を薦めてくれた。
「読まなければ」ではなく「読みたい!」という読書好きの本質にそのタイミングだから直結することができたのかもしれません。

タイミングよく「人生を豊かにする術を心得た」と思うと、夫にも、著者の藤原和博さんにも本当に感謝だなと思います。

人生100年時代。
これから迎える40代が読書と共にどんな線を描いていくのか、本当にほんとうに楽しみです。

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