見出し画像

家庭崩壊の危機をのりこえてわたしたち家族のカタチを作っていくために

わが家はときどき家庭崩壊の危機になります。

実はかれこれ7年間、3人の子どもに恵まれながら子育てをしながらその危機を何度もなんども繰り返していて。その大きな原因の一つとして、夫の働き方の問題から家庭に父親の役割を担う人が欠如していることがあげられます。

これは夫を責めるためのものではなく、働く組織や社会を批判するものでもなく、わが家における問題を解決していくための前向きな問題提起として書き綴っているものだという事を先にちゃんと述べておきますね。

そう、夫は家事に関しては申し分ないほどに毎日やってくれている。
子どもたちの事も心から愛していて、妻であるわたしへの気遣いや優しさに私自身も本当に支えられている。

ただ、仕事が忙しすぎるのです。

教育関係の仕事をする夫は、今年度に入ってからは特に、早朝に家を出て、家族が寝静まってから帰宅ということはしょっちゅう。それでいて休日があまりにも少ない。6月は1回、7月は2回の休みしかありませんでした。
月に4~5回休みがあれば、「今月は休みが多かったね」と、もはや当たり前の感覚がちょっとズレている。土日の出勤だからといって、ちょっとゆるめかというとそうでもなく、朝の4時や5時台に家を出る事もあれば、帰りは夕飯までに帰ってこられればいいほう。それが夫の日常です。
組織の働き方改革といわれる一方で未だにこういう働き方が存在していて。

結果、家庭に父親の役割を担う人がいない。
崩壊の危機はそんな状況の弊害としてわが家におこります。

あらゆる負担を軽減させるために


子育て環境の中に父親が常に不在ということとなると、母親のわたしにかかる負担は当然大きくなる。そんなあらゆる負担をへらすために、同居している義両親は、食事の用意を担ってくれたり、人手がほしいときや頼りたいときには快く協力してくれたり。
わたしは実家も近いので、そっちを頼るという選択肢もあります。どちらも祖父母としての役割を全うしてくれ、それによってわたしの負担は軽減され、精神的にも本当に支えられている。
母親という同じ立場のお友達や、甥っ子姪っ子をかわいがってくれるわたしの妹たちなど、協力してくれるありがたい存在がいるのも確か。
そんなありがたい子育てのサポート体制に恵まれながら、「辛さ」の部分だけはどうしても抱えきれなくなる事があるのです。

子育て中の「幸せ」の一方で存在する「辛さ」


子育てをしながら、この上ない喜びや幸せを感じながら、一方でこれでもかというほどに辛いこともある。子育ての「辛さ」は親の性格や性質、価値観、子育て環境によって何をどれだけ辛いと感じるかは人それぞれだけれど、なにぶん母親は抱えやすいもの。

わたしの場合はというと。。
子どもたちが今よりもっと幼い頃は、眠ることや食べる事、自分の体力を維持する事すらもままならない状況で日常をやりくりしなければいけない。毎週やってくるワンオペの連休が本当に辛かったり。
3人それぞれの自我や好奇心が発達してくると、まだ自分一人ではできない事のサポートに加えて、各々の意思表示や要求の対応・兄妹げんか・ぐずりや癇癪など、そんなことが3人それぞれのペースで同時に巻き起こる。それらすべてを一人で受け止めなければいけない、そしてそこから逃れられない状況が続きホッと休まる時間がない。
そんな状況で、わたしはこの子にとってどう在ればよいのかを場面場面で1つ1つ考えてしまうところがあるので、単純な事のように思える一つ一つの事がより複雑化して時間がかかる。たとえば朝保育園に連れて行くまでに3時間以上かかるとか、3人が順番にグズって結果何時間もそのグズりに付き合うことになるとか。子どもたちそれぞれの歯車と母であるわたしの歯車が噛み合わない状況がずっと続くような感じ。
子どもの体調や心配事、そこに対する歩み寄りをはじめ、自分の事よりも優先しなければいけない事が盛りだくさん。
そしてまた、先に述べたありがたいサポート態勢も自分で構築しなければ日常がまわらない。スケジュール調整から段取り、気遣い。あらゆる事を想定して頭も身体もフル回転。
ズボラになれないわたしの気質も相まって、毎日色んな事がある中でふり返る間もなくまた1日がやってくる。

今この瞬間に夫がいてくれたらと思うことがこれまでにどれだけあったことか。わが家には一番いてほしい時に夫(父親)は仕事でいないのです。

わたしの役割のバランス


わたしには母としての役割以外にも仕事や妻や嫁としての役割もある。今は割合としては少ないけれど、友人や地域や社会の中でささやかでも何か役割を持っていたい。そして何より、わたし自身を大切にするための「自分」という役割があります。
そんな中で、母親としての役割とその中で抱える辛さが自分の中の大半を占めてしまうとき、完全にキャパオーバーをおこしてしまうのです。

そうなってしまうと次はどんな事がおこるのか。
些細なことでイライラしてしまったり不安を抱えやすくなったり、言動、行動が不機嫌なものになり、時には感情的になってしまうこともあったり。その矛先が子どもに向きやすくなります。
こういう風でありたいなと思う子どもとの関わりの意識や質がどんどん低下して「これなぁに?」といった子どもの純粋な質問にすら応えるのが億劫になってくることも。そしてまたそんな自分に自己嫌悪する。
そうなると当然子どもたちも不安定に荒れてきて、そんな子どもに手を焼くことが増え、心身共に消耗することが続くと、しまいに体調を崩す。
仕事や日常にも滞りが生じはじめ、自分を整えたくても状況がそうさせてくれないために、心のバランスもどんどん崩れていく。
悪循環と崩壊のはじまりです。

夫の役割のバランス


ここまで書いて、母であるわたしだけが辛いかというと、夫には夫の辛さというものも実は存在します。
家庭を支えるうえでも、自分が務める組織の将来性についての意識がたぶん夫は強い。こんな働き方では続かない、ましてや教育の分野において教育自体の質は下がるばかり。組織に対する色んな危機感を感じながら、日常業務に加えて、新しい取組を必死にやっている。そこに今は大半の時間とエネルギーを注いでいて、家庭になかなか時間を使えない。ましてや自分の身体を労わることすらもままならない。
家庭のため組織のためと思ってやっている事が、実際は家庭や妻に負担をかけるばかり。そうこう言っていたら子どもたちはあっという間に大きくなってしまう。本当にこれでいのだろうか。
仕事でも家庭でもあらゆる責任と役割がある中で、その大半が仕事で埋め尽くされる。このままではいけないと思う一方、何からどうすればよいのかわからず、それを考える暇もなく身動きがとれる余白がない。
夫は夫でそんな辛い悪循環がおこっているのです。

メンタルはわりと強い夫でしたが、最近は睡眠が上手くとれない事があったり、体重が減ってきたりという身体に不調が出ていることも。
少し前、通勤中に車で追突事故をおこした時には、いよいよこれは何かのサインとして受け止めなければいけないのではとその危機感も感じはじめました。

わたしも夫も役割やバランスがあまりに偏りすぎなのです。

それでもやってきたわたしと夫の努力


これらのことはその都度、何度も何度も何度も夫と話をしてきて、必死で支えあってきたし、崩壊危機になりそうな時もお互いに色んな感情がある中で大切なたいせつな家庭を構築しなおしてきました。

わたしは、ワンオペの休日でも無理なく親子が共に楽しめる工夫をしたり、自分の時間を確保するために朝早く起きる習慣にしたり。
仕事も楽しめるようにやりたい方向性を模索したり、なんとか時間を捻出して自分を労る日やお楽しみの日をつくったり。
そして、それら工夫の大前提に、自分が何を心地よく思うか、どんな事が苦手かという自分の性質を自分でちゃんと理解しておくことを常に意識してきました。

夫は夫で、抱えている仕事をどうやったら効率よくできるかを考えて家族の時間をなんとかして捻出したり。決して自分だけでは無い同じ働き方をする同僚もいる職場で休みをとる事を懸念しながらも家族の時間を優先してくれたり。車で片道50分の通勤時間を視野を広げる事や情報を得るための時間として活用したり。愛車のジムニーでの通勤時間を唯一の自分の時間として工夫したり。
そして数少ない休みの中、自分の身体を労わることよりも優先してわたしに一人の時間を過ごさせてくれたり、子どもたちの喜ぶことを考えてくれたり。

決して悪いことばかりではないので、むしろいいことだってたくさんあるので、そんな事でなんとか繋ぎとめられたり。
今でこそ子どもたちは7歳・5歳・3歳になり、自分でできることも増えて協力してくれることもたくさんあります。その成長に救われながら支えられていることもたくさんあります。

そんなこんなで、数々の崩壊危機を繰り返しながらもなんとかこれまでやってきました。

ライフステージの岐路


どんな状況であれ、夫婦互いの存在と子どもたちの存在があるというだけで支えられてきた7年間。それだけで十分幸せじゃないかと肯定することもできるけれど、子どもたちとの暮らしの中でまだこれから先しばらくは良いことも悪いことも色んな未知がまっているはずです。もっと能動的に家族のカタチを作っていきたいと思うようになりました。
この7年間の経験をふまえて、各々の役割の偏りや悪循環を立て直していく為には何を手放して何にエネルギーを使えばいいのか。
個人として夫婦として、ライフステージの岐路に今立たされていると感じています。

不安や負担があふれて何かが崩れないようにということに軸足を置くのではなく、今の今、もっと「喜び」や「楽しさ」や豊かな事に軸足をおいてエネルギーをそそぐ事ができないのか?もっと良い循環を目指すことってできないのか?

わたしはそこをあきらめたくはないのです。

わが家の問題は、社会の問題から生じる歪みのようなものです。
暮らしや子育てに直結する『働き方』を見直すことは、決して単純で簡単なことではありません。

だけど、社会や組織のせいにするのではなく、わたしたちにできる事は何なのか?
結局のところ一人ひとりの意識と行動なしには夫婦も家庭も組織も社会も良い循環にはならないような気がするのです。

自分たちはこれからどんな根を張っていけばよいのか。
そんな事を今、夫婦で真剣に話しています。

10年後20年後に、自分たちが積み重ねてきた事が、これでよかったねと言えるように。

もうひとふんばり頑張ろうと思いながら、このnoteにまずはわが家の問題提起を書いておこうと思ったのでした。


この記事が参加している募集

これからの家族のかたち

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?