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デニー通りの賛美歌【ホラー・短編】

 ザゲ市にあるデニー通りの人々は決して賛美歌を歌わない。
 それは通りに住む人々ならよく知っていることだった。

 あの通りに住む人々がべつだん不信心で不義というわけではない。少し北へ行った通りには小さな教会があって、日曜に開かれる礼拝に毎週出向く人もいるくらいだ。反対にそれほど熱心な教徒でなくても、わざわざ日曜に出向いて石を投げるほど暇ではない。単に、歌いたくてもデニー通りを通る時は歌わない方がいいというだけの話だ。そもそも賛美歌は大勢で歌うことや、教会で歌うことを想定された曲だ。歩いている時にわざわざ歌う人もそうはいまい。
 私がデニー通りに引っ越したのは、本格的な冬が訪れる少し前のこと。間の悪いことに、それまで勤めていた小さな会社はあっけなく倒産してしまった。同時に、私を含めて会社の寮に住み込んでいた人々は無情にも追い出されることになってしまった。とにかく早いところ、新しい仕事となによりも新しく住む家を見つけないといけなかった。そんななか、デニー通りの古いアパートが格安で賃貸に出ているのを見つけたのだ。これまで行った事もない土地だったが、四の五の言っている暇はなかった。
 地図を頼りにアパートに向かうと、一階の管理人室にいた大家の老婆はにこやかに応対してくれた。壁掛け型の、木製のキーボックスから鍵を取り出すと、彼女は部屋まで案内してくれた。私のものになる予定の部屋は、三階のいちばん右端だった。古いとは聞いていたが、小さいキッチンもある。浴室にはトイレとシャワーつき。日当たりは少し悪いものの、通りに面した窓を開ければそれほど不快でもない。住むには十分すぎた。すぐにでも入居できると聞くと、私はその日のうちに契約を済ませた。そもそもが寮に住んでいたせいでそれほど荷物もない。違う仕事を見つけたらまた引っ越してもいいくらいの軽い気持ちだった。
 いくつか注意点を受けてから、老婆は不意に付け足した。
「ああ、それとね。デニー通りの建物は古いものが覆いからね。壁が薄いの。だから、デニー通りを通るときは、歌ったりすると迷惑になるの。ね。だからあんまり歌わない方がいいわよ。特に賛美歌はね」
「はあ」
 私は若干気の抜けた返事をした。
 要はうるさくするなということだろう。しかし、足音はともかく歌うなときたか。しかもこの建物ではなく、デニー通りを通るときとは。私がひとまず返事をすると、老婆は満足げに管理人室に戻っていった。とにもかくにも、この部屋は今日から私のものだ。

 地図アプリでスーパーや店の位置を確認すると、買い物を済ませることにした。少しは蓄えがあって良かった。後は仕事を探すだけだ。食料品を買い込んで、家に戻る。スーパーを出た時には夕暮れだったのに、すっかり暗くなってしまった。このあたりは車の通りも少ないのか静かだった。家に近づくにつれてすれ違う人も少なくなっていくが、あまり気にせずに家路を急いだ。
 角を曲がってデニー通りに入った頃、不意にどこかから声が聞こえてくるのに気付いた。
「うん?」
 歌のようだった。
 耳をすませてみると、どこかで聞いたような曲だった。一人じゃない。何人かの子供たちが歌っている。合唱している。微妙に聞き取りにくい。そこへ、不意に賛美歌のひとつだと思い出した。懐かしい。そういえば子供の頃に聞いたきりで、最近は教会にも行かないから疎遠になっていた。
 それにしたって、へたくそだ。そりゃあこんな時間まで練習もするだろう。もしかして教会で連中しているのだろうか。
 しかし、教会はもっと北の方にあったはず。いくら静かだからといって、ここまで声が聞こえるはずがない。
 加えて、ここはデニー通りだ。デニー通りではうるさくするなと言われていたはずだ。それなのに、賛美歌を歌っている子供たちがいるなんて。だが、諫められるような気配もない。こんなに大勢で歌っていたら、苦情を受けるだろう。
 どこだろうと思っている間に、アパートの入り口についていた。まだ微かな歌声がしていた。けれどもアパートに入るともう歌は聞こえなくなり、自分の部屋に帰った頃にはもう聞こえなくなっていた。翌日になると、そんなことも忘れてしまっていた。

 それから何日か経ち、私はいくつかの仕事の面接を受けていた。その帰り道のこと。すっかり日も落ちたデニー通りは、最初にすれ違った車一台のあとは往来すら無くなっていた。立ち並ぶアパートの窓からも、僅かな灯りが漏れるばかり。さっさと帰ろうと急いで道を行くと、不意にまたどこからか声が聞こえてくることに気がついた。
 ――また? こんな時間に?
 賛美歌だ。
 この間と同じ曲を、子供たちが歌っている。
 帰り道の不安を拭い去るようなその声に、少しだけホッとする。あいかわらず下手くそだったが、この間より少しうまくなっている気がした。それでもやっぱり、突然音が外れ、「ああ……」と思わずいいそうになってしまう。ときどき、音が外れている。ふざけているのだろうか。もしかすると自分では気付いてないのかも。録音して、後から聞き直している最中かも。それにしたって、この音の外し方は酷い。せっかくのいい気分で聞こえていた賛美歌が、一気に不気味に聞こえてくるじゃないか。時々、ロックバンドやホラー系バンドが不気味な賛美歌を作ったりするけれど、あっちの方がまだマシだ。でもまあ、だからこそ練習しているのだろう。
 でも、思わず応援してしまいそうになる。
 この近くのアパートが有名な合唱団の練習場所になっているのだろうか。ここで賛美歌を歌うなと言われたのは、下手に声をあげてしまうと声が混じってしまうとかそんな理由かもしれない。壁も薄いようだし。私は深く考えないことにした。なにしろまたアパートの中に入れば聞こえなくなったし、部屋に戻る頃には聞こえなくなっていたからだ。

 歌声が気にならなかったかと言われると、嘘だ。
 歌うなと言われた場所で聞こえてくると、誰かクレームでも入れやしないかと考えてしまう。
 教会に行ってみようかと考えたこともあった。でも私にとっては、新しい仕事を探す方が先で、日曜とはいえ教会に行くほど熱心ではなかった。ただなんとなく通りすがった時に聞こえてきたのは大人の声で、賛美歌は開け放たれた扉から微かに聞こえてくる程度だった。昼間とはいえ、教会からデニー通りまで聞こえてくるはずはない。それに、歌声はデニー通りに入った時だけ聞こえてくるのだ。
 大家さんにそれとなく聞いてみようとも思ったが、埒があかなかった。
「デニー通りのアパートは壁が薄いからね。ね。迷惑になるからね。賛美歌みたいなのは歌わないほうがいいわよ。ね」
 と、そう言われてしまうだけだったからだ。

 新しい仕事が決まったのは、それから少ししてからだった。
 面接に行ったいくつかの会社の一つから連絡があり、私はようやく新しい仕事を手に入れた。これでなんとか今年は大丈夫だ。私はその日の仕事を終えると、久々にくたくたになりながら家路に就いた。
 暗がりの中をデニー通りまで戻ってくると、またあの歌が聞こえていた。
 すっかり上手くなっている。
 安堵したのもあって、気が抜けていたのだろう。私はあの注意事項をすっかり忘れていた。気分が高揚していたのもあった。その歌声にあわせて、懐かしい気持ちになって、鼻唄がこぼれでていた。遠い日に歌った歌詞を思い出し、次第に私の口からは賛美歌が流れ出ていた。
 子供たちの声にあわせ、賛美歌を口ずさむ。
 いつの間にか子供たちの声に合わせて、歌っていた。
 そうしてアパートの前まで戻ってきて、扉を開けた。いつもだったら壁に阻まれて聞こえなくなるはずだった。
 ――今日は、まだ聞こえてる?
 今日はずいぶんと練習熱心らしい。管理人室の老婆は既に姿が無かったので、私はそのまま自分の部屋まで戻った。まだどこからか歌声がしている。
 なんだろう。
 心を癒すはずの賛美歌が、妙に不安になってくる。
 ときどき、妙に音が外れるからだろうか。
 胸騒ぎがして、急いで自分の部屋に戻った。
 まだ歌声がしていた。
 窓が開けっぱなしなわけではない。それなのに。電気を点けようとして、不意に気付いた。
 違う。
 これは外からじゃない。
 すぐそばで聞こえている。
「あああああああ!」
 その途端、耳元で金切り声があがった。
 
 翌朝、私は大家にたたき起こされた。
 私は入り口で倒れていて、そのまま意識を失ってしまったらしい。大家は慌てていて、何を言っているのかわからない。心配してくれたのかと思ったが、違った。
「あんた、さては賛美歌を歌ったね? ついてきたんだ。憑いてきたんだ。連れてきちまったんだ。出てってくれ。出てっておくれ。それしかないんだ。契約分のお金も返すから。ね。ね!」
 大家はそれこそいますぐにでも私を出て行かせようと必死だった。
「な、なんですか」
 私はそれだけ言うのに必死だった。大家は聞く耳を持たなかった。
「歌うなって言ったじゃないか。ねえ。とにかく、いいから、出てっておくれ」
 結局、私は引っ越しせざるをえなかった。

 それ以来、私はあの賛美歌を聴くたびにひどく不安に駆られる。
 あれはいったいなんだったのか。歌っていた子供たちはなんだったのか。何もわからないまま、私はデニー通りを追い出された。二度とあの通りに行くこともないだろう。
 その後なんとか新しい住居を手に入れることができたが、ときどき、まだ賛美歌が聞こえる気がする。
 そして私の耳に微かに残っているのだ。
 あの金切り声が。


 了

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