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無知でいられる特権

4年ほど前、知り合ったばかりの女性に、私がエスニックマイノリティゆえに受けたマイクロアグレッション経験について話したとき、「ねえ、それいつまで引きずるの?」と言われたことがある。その人は女性のエンパワメントに熱心で実際に活動もしていたので、正直そのコメントには面喰った。差別に対する意識は高いと思っていたからだ。しかもそれまでに私がその人と話したのは2回しかなかった。そしてその頃私はまだ、自分の体験について発信し始めたばかりで、何度も繰り返し訴えていた類の話ではない(別に繰り返し訴えていてもそう言われる筋合いはないのだが)。

この出来事はずっと私の心に引っ掛かっていたが、何が嫌だったのか長い間うまく言語化できなかった。でも今年紹介されて読んだ1冊の本が、そのモヤモヤを見事に整理してくれた。それが『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』である。

この本によると、私が受けたのはマイクロアグレッションのなかでもマイクロインバリデーションと呼ばれるものだ。これはたいてい無意識に行われ、周縁化された人々(マイノリティ)の「心理状態や感情、経験を排除、否定、無化」するという。その例の1つとして挙がっていたのは、「個人が差別感情を持っていることや、差別が永続していることを否定すること」。冒頭の人物の振る舞いはまさにこれである。私が現実に感じているものを、それをまったく意識しないで済む側の人間が封じ込めようとする。だから気持ち悪かったんだと、少し腹落ちした。

本によると、マジョリティとマイノリティではそもそも現実の捉え方が異なる。有色人種である著者のデラルド・ウィン・スー氏は、ある日飛行機に乗ったとき、自分と同僚が先に着席していたにもかかわらず、白人客が近くに座ると後方の席に移動させられた体験を紹介している。スー氏が白人の乗務員に対して人種差別の可能性を指摘すると、乗務員は自分はレイシストではないと憤慨し、最終的には話し合いを打ち切ったという。

人種差別以外にも、マイノリティ属性を持つ人であればスー氏のように「これはもしかして…」と思ったことのある人はいるだろう。そして「でもそんなはずはない」「たぶん考えすぎだ」と思おうとする。なぜなら、相手に明確な悪意が見えないからである。そしてたいていの場合、自分が穿った見方をする卑屈な人間になったかのような気分になるところまでがセットだ。

しかしそれは、考えすぎではない。本によると、マジョリティとマイノリティが捉える現実が異なるのだという。スー氏はこのように書いている。

人種というものが人々の間の相互作用に影響を及ぼす可能性についてなど、おそらく例の乗務員はまったくのぼらなかったのだろう。しかし、有色人種であるふたりの乗客にとって、人種というものは常に存在する要素であり、また人生のほとんどの局面に影響を与えている。ここで重要なのは、例の乗務員が意識的に差別をしたのかどうか、ということではない。そうではなく、乗務員は人種に対する「無自覚さ」や「気にとめなさ」のために、他の集団に属する人々の経験的なリアリティを否定するというやり方で、自身の世界観を周縁化された人々に押し付けてしまうことができる、ということである。自分とは考え方が異なる集団に属する人々に、世界観を押し付けることができるのは、それが力に基づいた行為だからである。

以前ある研究者は「マイノリティにとって差別は線の体験」だと言っていたが、まさにそのとおりだと思う。それは大きく捉えれば現在進行形であり、決して過去のものではない。新たな出来事は線の延長線上にあり、すべてはつながっている。理屈に合わない対応を受けたときに属性ゆえなのではと感じるのは、自分のなかに膨大な参照先が蓄積されているからなのだ。それは個人的な体験だけでない。メディアで目にする情報も含めてだ。

一方、マジョリティはその出来事を点を捉えることができるという。なぜなら、日常的に差別など意識せずに済む「特権」があるからである。冒頭の知り合いは私の体験を過去の1点の出来事として捉え、「はやく忘れろ」というようなことを言ったのだろう。

もう1つ、冒頭の人の発言で注目すべきは彼女自身が女性というマイノリティ属性にフォーカスした活動を行っている点である。活動の趣旨として分野を絞るのはよいが、自分の被抑圧属性は意識する一方で特権に無自覚な様子からは、社会の公平性を追求するために女性のエンパワメントに取り組んでいるというよりも、単に当事者である自分にまつわる課題を解決したいからなのだろうと感じた。

とはいえ、自らの特権に気づくことは結構難しい。特に自分が何らかのマイノリティ集団に属している場合はなおさらだ。今年読んだ別の本『真のダイバーシティをめざして 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』には、人は自分の劣位アイデンティティ(マイノリティ属性)を強く意識する傾向にあると指摘し、その理由について次のように述べている。

特権集団に自覚がないのは、自分たちが社会の基準になっていて、それゆえ自身の社会的アイデンティティについて考える必要がないからである。水の中の魚のようなもので、水の中にいることを当たり前だと感じていれば、水の存在に気づくことは難しい。しかもこの水には特権集団のイデオロギーが染み込んでいる。特権集団の人々は、自身の文化に囲まれており、それゆえそのことに気づかない。自分をむしろ個人として認識し、社会的権力や特権を持った集団の一員としての自覚はあまり持たないのである。他の社会集団の人々がひとくくりにされ、個人やグループ間の差異が忘れられがちなのに対し、特権集団の人々は個人としての意識が強く、成功も失敗もその人の実力と見なす傾向がある。

では「難しいから仕方がないよね」で済ませてよいのか。実はそれこそが「無知でいられる特権」である。なぜなら、マイノリティは日常的に不公平に向き合わざるを得ず、自分にはない特権の存在を否応なしに知るからである。本のなかで著者のダイアン・J・グッドマン氏が自ら気づいていなかった例として挙げるのは、公共の場でキスできる特権(性的少数者には当たり前ではない)、学会の会場を自由に移動できる特権(車いすの参加者にとっては困難である)などである。日本で私が気になるのは、アンケートによくある「既婚・未婚」を選ぶ欄だ。この国において「既婚」は異性愛者にしか許されない選択肢である。その特権に無知だからこそ、この欄がいつまでも存在しているのだなといつも思う(まったく別の観点では、離婚者や死別者は何を選べばよいのかという話もあるが)。そして本には、こうした特権意識の欠如こそが不公平を強化するのだと書かれている。

この本の監訳を担当した出口真紀子氏は、三重県の講演で自分自身の特権を可視化する重要性を説き、その方法を具体的に提案している。

私は「自分には〇〇という特権がある」というように、いろいろなことを置き換えて考える習慣を持つことを勧めています。例えば車いすユーザーを地下鉄で見かけた時に「車いす、大変だな」と思う共感力は大事です。でも、そこで終わらないでほしいのです。もう一歩踏み込んで、「私には、最寄りの地下鉄の出入り口をいつでも利用できる、という特権がある」「私には、急いでいる時は一番近い階段を下りていける、という特権がある」あるいは「私には、地下鉄を利用する前にエレベーターがあるのか・稼働しているのか、いちいち調べなくて済む特権がある」というように考えてみてください。「車いすユーザーに比べて、時間のロスも少ないし、エネルギーロスもない。その分、他のことができるので、『自動ドア』をどんどん進んでいける」とイメージできます。そのように置き換えることで、この問題が自分事になっていきます。

この講演では差別と特権について本当にわかりやすく解説されているので、少し長いがぜひ全文を読んでみてほしいと思う。

さて、人のふり見てわがふり直せ、である。私はこの国では(というよりどこの国でも)文化背景的には少数派だし、ビジネスの世界でも女性というマイノリティ属性だ。一方、SOGI(Sexual Orientation and Gender Identity、性的指向とジェンダーアイデンティティ)的には、異性愛者のシスジェンダーという特権側である。また年齢、経済的地位、障がいの有無、宗教などの点でもそうだ。そんな自分の特権に無自覚なあまり、私自身も無意識に人を傷つけたり差別したりしてきた可能性がある。

特定のマイノリティ集団の当事者としてだけでなく、自分の特権を生かして他のマイノリティ属性のためにできることを考え、行動を起こす。これは私自身にも課せられたテーマでもあり、社会的責任である。

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(写真:Denys Nevozhai by Unsplash)

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