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何度でもここへ - 弱いまま自分に優しく生きられる世界

認められたいという欲求が強く出る時


前回の投稿で「評価」への恐れについて書いた。

書いた後も、その(承認)引力はものすごく強く感じて、
ここまでくると一種の「アディクション(嗜癖)」だよなって振り返る。

アディクション(嗜癖)・依存とは
身体的・精神的・社会的に、自分の不利益や不都合となっているにもかかわらず、それをやめられずに反復し続けている状態

心地よい訳ではないのに、その引力に吸い込まれてしまう。

もちろん、「まるごと承認されたい」という思いは、根源的な欲望だと感じるし、まったく「無」ですという人も珍しいと思う。

だから、そのバランスというのかな。適度に承認を求めて、適度に自分で自分のことを承認している。そうやって人は生きているんじゃないかなって思う。

でも、ここ最近の自分を振り返ると、これまでの世界と新しい世界の狭間にいるような不安定な時で

特に受容が難しい「病」だったり、特に不安感の出やすい「表現」というものだったり、ホルモンバランスの影響(深いものが出てきやすい)も重なって、その欲求が強くなり過ぎていた(入り込んでいた)。

その欲求が強く出やすい時というのは、自分で自分のことを受容できない時だ。


他を意識した瞬間に、作品は腐る - 旧世界と新世界の狭間で


私は今、これまでの生き方と新しい生き方の狭間にいて、新しい生き方へシフトしていこうとしている。(新旧というのは、私にとっての新旧)

これまでの生き方とは、どんなに生き生きと外から見えても、どこかパワーゲームの中にいるような生き方、価値を他者に委ねる生き方

「〜しているから愛される」という条件付きの生き方、愛される為に必死で(一見スピリチュアリティのメソッドであっても)向上させていくような生き方。

そこには常に、微妙な上下があり、もっともらしい「正解」を示してもらえる誰かに、すがりつくような生き方だ。(私の中に、それがあった。)


新しい生き方とは、外からどう見られようと、「私は私」と堂々と生きることができ、愛されることよりも自分を愛することに意識が向いていて、

私というものを「固定」せず、流れの中で生きていくこと、自分にとっての「正解(真実)」は、自分の中にあるのだという生き方だ。


私は今、そういう狭間にいる。


一見、後者のような生き方をしているように感じた時もあったのだけど、そこには常に上下感のある「正解を擁護してくれる誰か」が存在していた。

本当の意味で、自分で自分の生き方を、堂々と「私は私なんだ」と思えてはいなかったと、振り返ると思う。


そんな「正解の擁護者」がいない中で、生の自分を出してみようという試みをしていたけれど、

どこかでチラチラと、以前の生き方、以前の正解のようなものを見張る目が、自分の中にいることを感じた。

表現をするのだけど、後から振り返ると、ほんの少し、今の等身大とニュアンスが変わっていってしまうというのかな。

そういうことを感じて、好きな芸術家が「他を意識した瞬間に、作品は腐る」と言っていた言葉を思い出した。


心の中のそのままの声を聴いてあげたい


旧世界__生まれてからこれまで、積み上げてきた知識、常識が自分の中には残っていて、それらが前面に出てくると

怒りを感じること、不快な感覚、病のこと、それらがとても恥ずかしいことのように思えて、それをなんとかしたくなる。

なんとかしようと思うと「今ここ」にはもういなくて、背景には自己否定が漂い、等身大の声を暗い部屋に閉じ込める。

でもそれは、閉じ込めておけるものでもないので、違和感として自分を、いろんな形でノックする。

自分の声を聞こうと始めたものに、だんだん「外の目」を気にする自分が出始め、それでも「評価を恐れない自分」になろうとし始めたのだけど

いやいや、待っておくれよ。それじゃあ心の声が置いてきぼり。今はあらためて、心の中のそのままの声を聞いてあげたいと時だったじゃないかって。

そんなこともあって、また一週間ほどnoteもお休みしていた。


自分のために生きるということ


そんな、表現や情報の入力をお休みにして、あらためて斎藤学氏の「自分のために生きるということ」を手に取る。


そういえば、昨年の同じ季節の頃に、この本をヒントに、参加していたコミュニティから離れ、パートナーとも一時的に食事も含めて別々の期間をとって、「自分で自分を満たす」ということを丁寧にやっていた。

いてもたってもいられないような、叫んでしまうような「寂しい」という感覚で全身が震えた。それを受け止めきれずに爆発してしまう時もあった。

それでも、同時期にパートナーもそれをしていたこともあり、ごまかしたりもできず、やるしかなかった。(まるで、アルコール依存を断つような、そんなものにさえ思えた)

そんな日々が1ヶ月ほど経った頃に、外に向いていた意識が、自分に向くような瞬間が増えてきて、「誰か」がいなくてもはじめて「あぁ、私はこれでいいんだ」と、思える感覚に触れた。

ただただ寝転がっていても、何をしていていもしていなくても、「はぁ〜〜〜」と、自分にくつろいでいる。なんとも表現し難い、いのちの泉のようなものが、内側からこんこんと湧き出ている・・・そんな感覚だった。


あらためて本を読み返して、そんな感覚を感じたことを思い出した。あぁ、今は忘れてしまっているけど、あの感覚はちゃんとここにあるんだ。


「これでいいのだ」と思えた時にしか聴こえない声


本を読んで思ったのは、旧世界の生き方は根強いものだから、ふとした時に戻っていってしまうということ。

それが戻らないためには、自分を自分で観察してあげることを続けること、そして上下のない「仲間」とシェアすることなど。

私は、あの「自分で自分を受容する感覚」が本当に素晴らしくて、どこかでそれを掴んだ!なんて思ってしまっていたんだと思う。

掴めることなんてなく、刻々と人は変わっていくのに。

そしていつの間にか、自分でも気づかないような感じで、だんだん旧世界的な感覚に戻ってしまっていたんだなぁと。

それを教えてくれたのは、パニック発作だったんだなぁと、あらためて感じた。

ふっとそんな流れを感じていると、「あぁ、やっぱりこれでよかったんだ」と、そんな、今を肯定する感覚が出てきて

そうやって肩の力がふっと抜けると出てきたのは、怒りのようなものだったり、寂しいというものだったり。ずーーーんと暗闇に入っていく感覚だったり、肚で湧き立つエネルギーだったり。

やっぱり、今ここを肯定することでしか、聴こえてこない声があるんだなって、あらためて感じたのでした。


弱いまま、自分に優しく生きられる世界


マイノリティをどう生きるか -ASD/ADHDにも書いたけれど、そういう性質や生育歴の中で、私は特に「寂しい」という感覚や、「〜していないと愛されない」という感覚が、濃い方だと感じている。

濃いから大変でしょ、とか言いたい訳ではなくて。そんなところから、荷物を降ろして、自分で自分を愛するということを体験したい人生なんだなって、そう思う。

「寂しい」という感覚や、「〜していないと愛されない」が濃いと、本当に自分の声を聴くって難しいけれど、それを聴きながら生きる人生を選びたい。

それを深いところで求めていることを病からも感じるし、誰でも、「これまで」を降ろして、自分で自分を愛する力が備わっていると思うから。


とりあえず、しばらくは、自分の中にすーーーと潜って、絵や詩なんかを自分のために書いてみて、自分で眺めてみるようなセルフダイアローグを続けてみたいと思っている。

noteは、SNSにはシェアしないで、思いついた時に、まずは自分のために、自分の心に触れるために、ここに書いてみる。

そんなプロセスが時を経て、何かが満ちた時に、弱いまま生きられる優しい世界を、自分の経験を話すことでシェアできたらいい


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