柴田佑奈

鎌倉の森の近くで夫と猫と暮らしてます。唄うこと、写真を撮ること、言葉を綴ること、何でも…

柴田佑奈

鎌倉の森の近くで夫と猫と暮らしてます。唄うこと、写真を撮ること、言葉を綴ること、何でもいいから、その時感じたことを水が流れるように表現して生きていられたら幸せだと思う。「創造性」と「瞑想」が生きる歓びでテーマ。繊細な感性を満喫できるひとり時間を大切にしています。

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生きていくために表現する

久しぶりのパニック発作ちょうど2ヶ月ほど前のこと、だいぶ落ち着いて来ていたパニック発作が久しぶりにどかんと起きた。 昨年の中頃に、「何者かになる」ということを諦めざるを得ない出来事があってから、あらためて等身大の自分と「身体」というところにスポットライトを当てていき シンプルに書くなら「丹力」を育て、そこに委ねていくような身体との関わり方を教わりつつ自分でも実感していくほどに「何があっても大抵のことは大丈夫だ」という感覚が育っていっていた。 何より、元々自己価値がものす

    • 何度でもここへ - 弱いまま自分に優しく生きられる世界

      認められたいという欲求が強く出る時 前回の投稿で「評価」への恐れについて書いた。 書いた後も、その(承認)引力はものすごく強く感じて、 ここまでくると一種の「アディクション(嗜癖)」だよなって振り返る。 アディクション(嗜癖)・依存とは 「身体的・精神的・社会的に、自分の不利益や不都合となっているにもかかわらず、それをやめられずに反復し続けている状態」 心地よい訳ではないのに、その引力に吸い込まれてしまう。 もちろん、「まるごと承認されたい」という思いは、根源的な欲望

      • すべての存在・いのちは等しい - 闘いの奥にあるもの

        この1週間はホルモンバランスの影響もあって、パソコンを見ないでゆっくりしたいんだ〜と身体が言っていた。 書きたいことは溢れてくるのだけど、身体の声を無視して良かった!ということは今まで無かったので(笑)、その流れに乗ってみた。 本を読んで、動画の音だけを聴いて、なんてやっていたら、ぐつぐつ?ぶくぶく?ぼわぼわ?と、ここまでの数ヶ月だったり、またそれ以前の体験が、混ざり合い、熟成されていくような時間になった。 通り抜けました!なんてことはなく、今もプロセスの中にいるのだけ

        • フラストレーションを道標に

          フラストレーションを使う? ここ最近のプロセスの中で、自分の中のイメージが大きく変わったのは「フラストレーション」の捉え方だ。 noteの最初の投稿「生きるために表現する」で、光と闇について友人からもらったヒントを言葉にしてみた。 こんな話の流れで出てきたキーワードは「フラストレーションを使っていく」だった。 人は「怒り」だとかなんとか、色々レッテルを貼りたがるけれど、それはただの「フラストレーション」として、使っていくといいと。 え?使っていく?その感覚が私にとって

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        生きていくために表現する

          スピリチュアリティの危うさ

          前回の投稿でASD/ADHDに関連させるような形__マイノリティを生きる人は自己価値が極端に低くなりやすく、愛されるために自分を過変形させ続けてしまう__そんな「生きづらさ」について書いてみた。 性質自体が生きづらかったのではなく「変わらなければいけない」「このままではいけない」と思う(自分を否定する)こと自体が、自分を苦しくさせていたのかもしれないという、最近感じていることをまとめたもの。 今日は、その「変わらなければ」と思い続けてきた自分が、スピリチュアリティの世界に

          スピリチュアリティの危うさ

          マイノリティをどう生きるか - ASD/ADHD

          今日はASD/ADHD(発達障害と呼ばれるもの)と、二次障害(発達障害などの一次障害を原因として、周囲からの理解を得づらい環境で繰り返し注意されたり不安な経験をすることで、自己肯定感が下がり、うつ病、不安障害、ひきこもり等の症状が発生している状態)に関連したことを書いてみたいと思う。 (私自身は診断を受けている訳ではないのでグレーゾーンであること、あくまで素人の洞察であることをご理解の上お読みください) 私にとって「ASD/ADHD」は、あくまで自己理解、変えられない、変

          マイノリティをどう生きるか - ASD/ADHD

          死について - 死は生の問いになる

          ここ最近のプロセスの中で、「世界はバランスである」というヒントを頂いて、居心地の悪い感覚(フラストレーション)を抑圧すれば、生き生きとした喜びも麻痺すること、 清濁合わせた個性というものを抑えようとすれば、霊性も空想の世界になりかねないこと、地に足が着いていなければ天など感じられないこと、そんな事に思いを巡らせていた。 そういう流れもあって、死というものをタブーにしたり避けていると、生は立ち上がってこないのではないかと。 そこで、死について見つめてみようと思い、とある方

          死について - 死は生の問いになる