見出し画像

生きていくために表現する

久しぶりのパニック発作

ちょうど2ヶ月ほど前のこと、だいぶ落ち着いて来ていたパニック発作が久しぶりにどかんと起きた。

昨年の中頃に、「何者かになる」ということを諦めざるを得ない出来事があってから、あらためて等身大の自分と「身体」というところにスポットライトを当てていき

シンプルに書くなら「丹力」を育て、そこに委ねていくような身体との関わり方を教わりつつ自分でも実感していくほどに「何があっても大抵のことは大丈夫だ」という感覚が育っていっていた。

何より、元々自己価値がものすごく低い自分は、いつの間にか「一見すごそうな誰かの正解」を無意識に取り入れる癖があるのだけど、

そういう「正解らしきもの - 何者かになる」から離れ、どこまでも「自分の感性を信頼する」ということをあらためて取り戻していったことも大きい。


そんな心身の流れもあり、「多少息が苦しくなろうが、動悸がこようが、まぁなんとかなる。」それくらいの自信や生命力も出て来て、一人で行動できる範囲も増えていた。

なので、その日(発作の日)も別段焦りはなくて「あ、なんか久しぶりに来たけどきっと大丈夫だな」と最初は思った。

しかし、みるみる突き上げてくるエネルギーが強くなって、完全にキャパオーバーで振り切れる。喉は閉まって息は入りづらくなっていって、手足は冷たくなっていき、全身が震え始める。

「救急車か、信頼しているボディーワーカーの方か」というのが浮かんで来て、私はボディーワーカーの方に電話をかけた。しばし電話で誘導してもらって、少しずつ少しずつ息が入るようになり、その後は横になったまま落ち着くのを待った。

それが2ヶ月前のこと。


まずは、自分を責める

体調を崩すことは、不自然な生き方をしていることを身体が教えてくれるサインでもある。だから「決して悪いことじゃないんだ」というのは、この5年嫌というほど自分の心身と共にいる中で、そう思えるようになって来ていた。

でも、あまりの突然の出来事で、ショックも強かったこともあって、「自分の何がよくなかったんだろう」「何でこんなことが起きたんだろう」と、自分を責めたり、発作が起きる前に戻りたいと切に思った。

なぜなら、その発作に関連してまた外出が出来なくなったことと、パートナーに家に居てもらわないといけない状況をつくってしまったから。

これは、パニックの人が全てそうという訳ではなく、私自身のパニックの、いくつかある中の1つの要因として、強い対人恐怖と、そうであるがゆえの身近な人への強い依存があると理解してきていた。

そしてそういうものの奥にあると感じる「絶え難い寂しさ」にも、この1年、誤魔化さずに触れ続けてきて、自分と自分、そしてパートナーとの距離感というものも、尊重のある適度な距離が段々築けていけるようになってきていた。

そんなこともあったので、「また自分はパニックを使ってパートナーを束縛しようとしてしまっているんじゃないか」とか「外に出ることが怖くて、また引きこもろうとしているのか」とか、最初は本当に自分を責めに責めた。

悪いことが起きてしまった、同じことを繰り返してしまっているんじゃないか、私は全然変われていないんじゃないか、そうやって自分を責めた。



霊性から見る病 - 病は力、病はメッセージ

ここまで来ると、自分で自分のことを冷静に感じたり受けとったりしてあげることは諦めるしかないので、早々にボディーワーカーの方のサポートを受けることにした。

その方は普段の付き合いもあるので、ここ最近の私を見ていて「後ろ側の意識が薄くなって、前に前にって行きすぎてたから、またパニックになるかもと気になっていた」と。

同時に、今起きていることが悪いことではなく「身体はユナさんの味方だよ」ということ「何もしなくても身体はちゃんと戻っていく」ということ。を伝えてくれた。

そしてもう一人、人生の先輩でもあり信頼できる友人でもある方に連絡を取り、すぐに話す機会をつくってくれた。

その方は、スピリチュアリティから精神的な疾患から、とにかく多様な経験をしてきた方で、とにかく意識のスケールが広くて面白い方。

ひととおり話した時に言ってもらったことは「ここ最近、ずっとキラキラしたもの、美しいものばかりやっていたから、またパニックになるんじゃないかと思ってたよ。笑」と。

この世界はバランスであり、霊性から見れば光も闇も本当は無いのだけど、人間の目線から見る光と闇があって、そこから見ると闇を悪いものと思い込んで隠し、光でいようとしすぎるところがあると。

そして、人から見ると目を覆いたくなるような闇の面も、霊性から見ればただの自分の生命力・エネルギーであって、そこを追いやるということは、自分の生命力自体を追いやるということ。

病にまでなる、パニックにまでなるその爆発的なエネルギーを、抑え込むのじゃなくて使っていったらいい。表現していったらいい。病は力であり、病は「どう生きたいのか」を教えてくれるメッセージなんだと。

偽善的な肯定や無責任な励ましではない、霊性から眺める「人間という存在」へのまるごとの優しい眼差し、ポップさ、愛に、涙が止まらなかった。


「変わる」とは変形することではなく、眼差しを育むこと

私は、繊細さと爆発的なエネルギーが同時に存在している感覚で、とんでもない暴れ馬が自分の中に存在しているような感覚で生きて来た。

自分でも自分がわからない。とんでもないエネルギーと、どうやって付き合っていったらいいのか、ものすごい憤りや、過剰な集中や、その他色んな面で振り幅がすごく大きくて、ずっと生きづらさを抱えて来た。

その生きづらさの原因が、過度な繊細さや、とんでもなく爆発的なエネルギーによるものだと思って、ずっとずっとそれを変えられる道を模索してきた。

強くなりたい、穏やかになりたい、ずっと愛の中にいたい。自分の中の狂気をなんとかしたい。変わりたい、変わりたい、変わりたい。どうやったら平穏な日々を送ることができるんだろうと。

でも今回の病からのメッセージでハッとしたのだ。私が闇だとか狂気だとか苦しいとか思ってなんとかしようとしていたものは、とても人間的な目線でのジャッジメントであったこと。

世界は陰陽含めて支えているものはひとつなのに、人間目線で差別し、一方(人間から見た、美しいもの)だけを求め続けてきたこと。

霊性を探求していけば、自分の境界線も薄くなっていき、他との摩擦も減って、それが楽に生きられる方向性だと思ってきたけれど、

それは人間目線の霊性だから、一見「スピリチュアル」ぽくても、片側だけを求めることで、どこまでも個のもつ性質、生命の力が失われていく。同じ「正解のようなものに」成形されていく。

真に霊性を育むということは、その分ジャッジメントやコントロールが消えて行き、逆に個性というものが際立っていくのだと感じた。今回のことで、私が求めてきたものと、まったく逆のものが立ち上がって来た。

「すべて」から見れば同じものでも、どうしても人から見れば「生と死」が分けられる。「すべて」から見れば同じものでも。どうしても人から見れば「光と闇」が分けられる。

それは仕方ないことなのだけど、でもそういう目線(生も死も光も闇も違わないのだという目線)も同時に育んでいくことで、自分への見方が少し変わっていく。

私はどこかでずっと「変わろう」としてきた。自分の持って生まれた性質を否定して、変形させようとして生きて来た。でも「変わる」というのは、持って生まれた性質を変形させないまま、「自分を見つめる眼差し」の方が変わるということだったんだと思えてきた。

それが、霊性を育んでいくことであって、自分らしさを消して、一様になっていくことではないのだ。

自分の性質が生きづらかったのではなくて、自分の性質を変えようとしていたから生きづらかったのだ。


美しさも醜さも、喜びも憤りもセンスオブワンダーに

私が今回のことで、サポートやヒントをもらった2人の人は、もちろん違うタイプの人なのだけれど、共通していることがある。

それは、霊性から人間(自分も人も)というものを眺めているから、ジャッジメントというものが限りなく少ない。あったとしても入り込まないでそのこと自体を楽しんでいる。

センスオブワンダーというと、風が肌に触れる様を感じたり、葉の揺れる音を聴いたり、雨の後の雫の美しさに感動して涙が出たり、そういう一面も自分の中にはあって、そういう部分が生きる感動でもあった。

それはそれですごく美しいものなんだけど、ここ最近関わっているこの2人の人は、一見人間が避けたがるもの(フラストレーションや怒りや、その他人から見ると「ネガティブ」だとジャッジメントされているもの)に対してもセンスオブワンダーなのだ。

「うわ〜〜〜こんなことで自分は怒ってるよ、なになに?」みたいな感覚なわけです。笑

正直、色々ひっくり返っていくような心持ちになった。

でもこれは、「そうか!ジャッジメントしなくてもいいんだ」と思ったところですぐにそう思える訳じゃ無い。その人たちも、長年、日々の積み重ねの中で霊性から見つめるという鍛錬を続けてきた方達。

だから、私は自分の中で追いやってきたものを、覚束ないながら、少しずつ少しずつ外に出していく練習をここ1ヶ月してきた。


生々しい自分を、生きるために表現していく

少しずつ外に出していく練習というのは、もちろん、人にぶつけるとかそういうことじゃなくて

本名ではないアカウントをつくって、そこに溢れるままに生々しい自分を書き綴っては、その目の前に立ち現れてくる自分をまた自分で見続けていた。

驚くほどに文章が溢れ続けた。何十記事も書いた。こんなに書くのが好きだったのか、こんなにも自分の中に熱量があったのかと。

そういうことを続けていった時に、その生々しい自分で、少しずつ人間関係が生まれ始めたりもしたのも面白かった。

何より、そうしていく内に、自分の病のこと、依存的な面、弱さ、振り幅の大きさ、爆発的なエネルギー、憤りや狂気、そういうものへのジャッジメントが少しずつ減っていった。あれ?私って面白い人間なのかもな、とか。

だから、そういう1ヶ月を経て、自分の本名のアカウントでもそのままを綴っていくことを始めたいと思うようになり、今日が来た。

正直、とっても怖い。色んなものが壊れていくんじゃないかとか、そういう恐れもどこかではある。

でも、自分自身が、自分の片面だけを求めることに限界が来てしまった。だから、色んなものがもし壊れても、また新しい感覚の自分で、1から始めていこうと思う。生きるってそんなことの繰り返し。

生きるために、自分のために、私はここに表現していきます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?