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アナログ人間なりに生成AIとの付き合い方を考えてみた

note初投稿した記事「生成AIにコーヒー豆の擬人化を無茶振りしてみた結果」の反応が思ったよりも多くて驚いた。それだけ今、生成AIは関心を集めているのだろう。

念のため伝えておくと、私自身は手帳や手紙や手書きのノートが好きなアナログ人間だ。本も紙で読みたいタイプ。今週もたまたま見つけた商店街の古本屋で、気付けば5冊も買っていた。

つい最近、地元の珈琲屋のマスターに手紙を書いた。 おいしい記憶に思いを馳せながら、マスターのことを考えて、溢れてきたものを文字にする。手持ちのシールから選んで貼ったり、コーヒーや鳥のハンコを押したりした。手紙というのはもらうのもうれしいが、 書く過程そのものが豊かである。それに陶芸作品と自家焙煎した珈琲豆をまとめて送ることにした。敬愛する珈琲屋のマスターに対して珈琲豆を送るのはどうかという思いも浮かんだが、封をして、郵便局に持ち込む。そのあとは、なんとなくいいことしたときみたいな気持ちがした。

陶芸作品「珈琲坊や」


こう書くと、私が大変マメな人間みたいに思えるかもしれない。でもそんなことはない。実際にはかなりの面倒くさがり屋だと自覚している。

コーヒーだってそう。これほど面倒くさい飲み物は他にないのではないか。私はペーパードリップで淹れるが、飲もうと思ったらコーヒー器具を準備するところから始めないといけない。それからお湯を沸かし、測った珈琲豆をミルで挽く。ドリッパーとマグカップをお湯で温めてペーパーフィルターを敷き、挽きたての豆を入れて、蒸らす。時間をかけて、丁寧に淹れる。ああ、面倒くさいと思うことはありながらも、活きのいい珈琲豆がぷくぅ〜っとふくらむ様はまるで生き物のように可愛らしい。

そんな風に、面倒くさいと感じる中に豊かさが潜んでいることはたくさんある。

生成AIとの会話は即座に返ってくるし、傷付かない。会話をやめようと思えばいつでもやめればよい。非常にラクである。今はまだ「生成AIすげー!」といった風潮だが、それが当たり前になると、人間を面倒くさいと感じることはなおさら増えるのではないか。

生成AIとの付き合い方について考えてみよう。

私が生成AIを使うのは、単純に興味があるから。個人の遊び目的である。自分のなんてことない思いつきをパッと形にできるなんて、魔法みたいだと思った。

画像生成という名の魔法

生成AI業界の流れはものすごく速い。プロンプトとかいろいろあるけど、 難しいことはよく分からないまま毎日更新されていく。だからだろうか。そのスピード感に圧倒されながら、最前線で乗りこなしたいという気はどうにも起きない。飲み込まれないように、日々のことをできるだけ丁寧に、生活や散歩や手書きの文字をおろそかにしないように。紙の本を愛でる感性を吹き飛ばしてしまわないように。そういうことを保っていないと、あっという間に時間が過ぎて豊かさをとりこぼしてしまいそうな気がする。

たとえばChatGPTの回答を自分の言葉として発信した時に、その内容が間違っていることがあったとして、「だってChatGPTが言ったから」というのは言い訳にならない。あくまでもChatGPTが言ったことを丸のみにしたのは自分自身だ。そういう感覚は持っていたい。

つまり、そこをクリアしていることが私にとって大切だ。自分なりに生成AIとの付き合い方を考えた上で、納得して付き合えているなら。自分の言葉に責任を持つ姿勢でいるなら。生成AIと遊ぶのは、大いに結構である。

当たり前だが、自分の考えが万人にとっての真実とは全く思わない。あくまでも今の私にとっての考え方で、変わることだってあるかもしれない。変わっていくのは自然なことだ、生きているんだから。

話がそれるのも仕方ない。話すよりも書く方が正確に表現できると感じる人間は、書きながら考えているようなところがあると思う。だからこそ、手書きのノートが必要だ。ここに書くのはほんの少し。それを支えているのは、なんといっても手書きのノートである。

とはいえ、生成AIの記事を興味深く読んでいる自分がいるのもたしかだ。

このテーマについては、また書くかもしれない。

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