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書くことがない、と思う時

書くことが好き。書くために生きている。
仕事ではなく趣味で書く人間ならば、そのくらいの心意気の方もいらっしゃると思うが、僕はそっち側の人間ではないことを連続更新をすることで思い知る。

どうしても気分がのらない日がある。書くことが思いつかないか、思いついても時間がかかりそうなものしか浮かばない日がある。
とはいえ、noteに張りつける時間は限られているのだ。気分がのらなかろうと、書かないことには終わらない。
そうやって何とかひねり出して25日目、あともうちょっとのところで息切れしかかっている。どうせ10月31日までのチャレンジ、あと数日で達成なのだから踏ん張りどころという意識がなければ、たぶん投げていただろう。
つくづく、100日とかできる人凄すぎる。

さて、では書かない時の自分はどうしているか、といえば、勉強だとか仕事だとか言えれば格好いいのだが、まぁ、別の娯楽に手を出しているだけである。
一応、趣味の小説の方を書いている、といえればnoteユーザー的にはマシなのだが、万年リハビリ中なので、胸を張って言えることはない。
数年前に比べると、短編程度は書けるくらいには復帰しているが、週一更新が出来るか出来ないか、くらいの執筆量しかないので、自分の中では亀の歩みと言った気分だ。
では、何をしているか。
最近はとにかくアプリゲームをだらだらいじっているか、YouTubeをだらだら見ているか、だ。
自堕落にもほどがある。
別にやっていることが悪いのではない。楽しんでいるのならいいのではないかと思う。それを「だらだら」やっているのがよろしくないだけで。
それならそれでネタにでもすればいいものだが、まとめるには時間のかかるものに該当するため、意味もなく古漬けにされていたりする。
あと、ゲームをプレイしたからと言って何でも書ける訳ではない、というのもある。個人的に面白いな、という点がポジティブでもネガティブでも存在しないと書けることがない。
ネガティブでも、というのは、現代の風潮だとセンシティブだな、とは思うのだが、”面白い批評”であればゲームにおいては意味がある。クソゲーレビューやバカゲーレビューがもてはやされる文化ではあるので、ネガティブでも面白い批評というのは存在するのだ。
とはいえ、匙加減がかなり難しいので、もろ刃ではあるのだが。
この辺りも、いつか書けたらいいな、と思っている。

と、書けないことをネタにする、というのも記事に困った時はアリなのだが、読んで面白いかは別問題なので、僕の心境的には最後の手段にしたい。
明日は、ちゃんと書けそうなネタを拾っておこうと思う。