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noteが思うように書けない時のネガティブ思考

note書くの、しんどくなる時がありませんか?
毎日更新が出来ない自分を責めたりするときはありませんか?
人の「スキ」の数を見て、それに比べて……とロウテンションになったりしませんか?

僕はあります、が、確実に5秒後には忘れています。
根本はネクラなのですが、趣味関連は割と前向きです。
けれど、他の方のnoteを見ていると、そんなおめでたい僕でもネガティブ発想に囚われる時があります。

「毎日更新、出来ないなぁ」

「一記事、こんな内容でも短時間では書けないんだよなぁ」

「あ、これはあんまり良く書けてないなぁ」

「公開したのはいいけど、止めておけばよかったかなぁ」

「この内容で企画に応募したのはまずかったかなぁ」

あーあ、と鬱陶しくため息つけば、「なぁ」と伸びて消える語尾の中に答えはあるのだろう、と思います。

「だけど」

人には人のペースがあります。
毎日更新する方が文章力が上がり、どんどんnoteに慣れていく人もいれば、一記事一記事に云十時間をかけて納得のいくものを書きたい人もいます。
はたまた、そこまでnoteの比重を高くしたいとは思わない人もいます。

人には人の感性があります。
案外、自分が気に入らないような内容だって、他者から見たら「いいな」と思うことだってあります。
少なくとも、最初自分が「公開してもいい」と思ったのなら、たとえ否の方が多かろうと、書く意義はあったというものです。

物事は、参加することにも意義はあります。
確かに「参加しない方がマシ」とか「時間の無駄」という事柄は往々にしてあるものですが、やってみないと分からないのです。
だから、参加した事柄に後悔しても仕方ないのです。

――なんて言葉、自分の中ではとっくにあって、だから。

結局、人なんて自分がやれるようにしか生きられないのだから、あまり人と比べて考えるなんて時間の無駄だよなぁ、と思うのです。

人の意見を聞き入れて糧にするには、自分の意見に変える必要がある。

自分が出来ないことを「出来なきゃダメ」と言っている人がいるとします。
その人の言葉は、貴方に何をもたらしますか。

それを言った誰かが、数日後に違うことを言った時、貴方は「それは私の考えと違う」と言えますか?
貴方が気にした言葉を投げかけた人間は、三年後に同じ意見を持っているかも分からないのに、それでも同じことを思えますか?

自分が気に入った言葉は、たとえ投げた人間が変わってしまっても自分自身のものに変わっているけれど、納得のいかない言葉は自分のものにはなってはくれません。
納得のいかない言葉は「発した人間」にしか依存していません。
「発した人間」は間違いなく貴方のnote時間には関係のない人です。
その後、意見を翻しても貴方が知ることが出来ないくらい、どうでもいい存在です。
そんな人間に合わせて、なんか良いことありますか。貴方はそいつの奴隷かなんかですか。貴方を認めてくれる人間より価値あるんですか、ソレ。

――なんて、客観的には言えるんだけど。

実際に自分がその思考に陥るとなかなか抜け出せないんだよなぁ、と頭をかく日々。

だからまぁ、それでもやりたいからやってる、って、ただそれだけの話。