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note始めてみなよと軽率に言えない、こんな世の中じゃ

僕は人の文章を読むのは好きだ。
人の文章を読むのが好きだからこそ、価値観として「人の書きたいという欲をそそのかす」「書きたいという欲求を阻害するものを排する」思想があるため、僕の書くことは、アマチュアで文章を書く人にはとことん甘いことが多いと思う。
だから割と軽率に、発信を勧めるところもない訳ではなかった。
けれど最近、少し考えを変えてきている。
安易に、人をSNSに呼び込むべきではないのかもしれない、と。

きっかけは、X(旧ツイッター)で、不快だな、という発言を見かけたことだ。
もちろん、取り方で不快になるとか、言葉が足りなくて誤解を招く、というような軽率な発言は、ただ当人が不注意なんだろう、としか思わないので、そこまで不快とも感じていないことが大半だ。
ただ、誰から見ても他者をこき下ろす意図しかない発言はちょっと違う。誰かを不快にさせようという目的しかないようにすら思える。

もちろん、僕だって聖人君子ではないので、陰口や愚痴を言うのと同じ感覚で呟くのは、まだ分かるのだ。
だが、違う。
たとえるなら、マウンティング発言の劣化版だ。人をこき下ろして自分を上げようとする意図こそ透けて見えるが、あまりに言葉が汚な過ぎて自分が上がる余地がない。
しかもその発言を、趣味系のアカウントでするのは正気を疑う。
だって、趣味系のアカウントだったら交流も考えるだろう。少なくとも、人に見てもらって反応もらおう程度のことは考えているだろう。その辺りをまったく考えない趣味系アカウントなんて意味がない。
人と交流する目的のアカウントで、誰から見ても嫌がられるような発言をわざわざするのか、さっぱり理解できない。
なぜ、人が嫌がるような発言をしたら、普通に人が離れてしまう、という危機感を持たないのだろうか。

もちろん、思うことは自由だ。たとえ大多数の人に嫌われてもその発言をしなくてはならない、と心が叫んでいるのなら仕方がない。
けれど、その発言で巻き起こる事態を覚悟してやっているようには、やはり思えないのだ。
もちろん、大半は何もなく済むだろう。無名のアカウントが人の目に止まる機会は少ない。
けれど万が一炎上してしまったら。関係する相手から抗議されたら。
謝罪で済めばいいが、最悪、訴訟、前科がつく可能性すらある。
大げさではなく、ネットで発言するということは、無名だろうが素人だろうが関係なく、著名人並みの責任を負うということなのだ。
有名税といえる著名人に比べると、本当はかなり割に合わない行為である。

でもそれなら、そんな割に合わない行為を勧めるのはどうなのだろうか。
今の時代、あまり軽率なことを書けば、いらない恨みを買ってしまうかもしれないのだ。
だったら、軽率に「皆、始めたらいいよ」とは言えない。
そういう危険性のある場所に、リスクを受容できない人を招き入れるのは、悪意以外なんだというのだろうか。
そんな風に、思うようになってしまったのだ。

本当のことを言うと、そこまで深く考えたくはない。
やはり軽率に色々な人が書く文章を見たい気持ちはある。
けれど、SNSは人の人生を壊してしまう可能性のあるツールだ、という事例が増えてしまうと、その考えは封印せざるを得ない。
一昔前にあった、チョコボールのCMを思い出す。
『キョロちゃんが怒ってる』
『人が優しい心を忘れてしまったからよ』
そんなもの、最初からないのかもしれないけれど。