(twitter) 記念日の概念
(はてなブログと大体は一緒です)
毎年7月6日に、「『サラダ記念日』発言」をしてしまう我が仕草が、なんとなく落ち着かないなあと思っていたら、今日は納得に近いtweetを見つけたので貼ります。
自分でも言語化したいけれど、日付が変わる前に投稿します。ちなみに僕は歌壇にも花壇にも文壇にもほぼ関わりは無いので、如何云いたいというわけでもないのですが、「私は居心地が悪い」ということを記述してゆくことは大事だとか思っていたりはする。します。のよ。私は長じて以来、サラダ記念日発言することも、しないまま過ごすことも、居心地がお悪いのであった。
つまり、この話題を出さないと文芸寄りのヒトではないみたいな気がしちゃうから、云わなきゃ? いけない? え、でも別におれの書いたものじゃないし毎年毎年……みたいな躊躇いがぐるぐるして、(これはおれの要らん自意識であって、他の文芸のひとについては如何とも思いません)つまりそのぐるぐるを、主語と述語のあるその日のこととして書き付けていきたいのであるね、おれはね。
俺はね。と、ときどき云いたくなるんだ、俺はね。
そうそう、雪が降ってくると「ゆひら」とtweetしたくなる動作とかも同じなんだな。結局総てtwitterへのpostへの意識みたいな感じになってきたけれど、ブログ記事でも出合い頭の挨拶でもまあ、同じでしょう。
つまるところ、俺たちはみんな、一生で何回、雪を見たときに「ゆひら」と発声しなければならないのか、いつまで発声するのかについて、考えてみなければならないのだろうと思う。(追記)
それはつまり、新しいorthodoxを刷新しようという意識が俺たちに無いのではないか? と自問しているということなのだと思います。
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今日は初めてマリトッツォを食べたわよ。「ツォ」をあなたはローマ字タイピングするときどう打ちますか? 私は一瞬躊躇ってから「tso」をタイプしました。
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