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【短編】凍恋

新幹線と特急を乗り継いで7時間はかかっただろうか。
日本屈指の温泉街の玄関口の駅のホームに降り立つと、目の前には海が広がり、後ろには冬の夕方の弱い日を浴びた高い山が連なっていた。

隣に県庁のあるターミナル駅があるせいか、この駅は案外小さく、何とも言えない郷愁を誘う。
キャリーバッグを引いて、バス停に向かうと、1時間に2本のバスは、特急の到着に合わせるように到着し、多くの観光客を乗せて走り出した。

駅前を出発してしばらくすると、建物はまばらになり、山道を上り始めると、温泉の煙とともに、温泉宿の看板がちらほら見えてきた。

ずいぶん遠くまで来ちゃったな。

耳がキーンと痛くなり、バスの車窓から麓の街並みとその向こうに弱い夕方の光に煌く海が見えた。

いくつかのバス停を過ぎ、乗客は私と数人の観光客だけになっていた。
目的地でバスを降りると、一瞬で凍りつくような空気に包まれ、ツーンと硫黄の匂いが鼻を刺激した。

温泉の白い煙が側溝からも立ち上っている。
雪が降った後なのか、濡れた道を少し歩いて、古民家をリノベーションした小さな温泉宿にたどり着いた。

午後6時少し前。

案内された部屋に入ると、ほっとため息をついた。
いかにも旅の宿といった部屋にはかわいらしい小物がそこここに飾られ、和室の畳には布団が2つ並べて敷かれていた。
彼はまだ来ていなかった。

さっと浴衣に着替えて、温泉に向かった。
温泉には誰も来ておらず、独り占めだった。
お湯は透明でさらっとしていた。
小さな露天風呂に首まで浸かって、寒さで凍えた体をゆっくりと温めた。

このまま消えてしまってもいいかな。

身体中から湯気をあげながら、部屋に戻ると、彼はまだ来ていなかった。

午後7時。

夕食は隣接するイタリアンを予約していた。
地場産の新鮮な野菜や魚介、肉を使った料理がメニューに並んでいた。

ケータイをテーブルに置き、地ビールで乾いた喉を潤した。
そういえば、朝ごはんを食べたきりで、何も食べていない。
長旅と温泉のせいか、すぐに酔いが回ってきた。

午後8時。

ケータイには着信もメッセージもない。
食事のオーダーをすると、色とりどりの野菜のサラダや、スープ、温かい肉料理、魚料理が次々と運ばれてきた。
どれも素材の良さを活かした優しい味がした。
ひとつひとつの食材の優しさが心に沁みた。

突然、涙の粒が、まぶたの堰を越えて、こぼれ落ちた。
それから、とめどなく、ボロボロと大粒の涙がこぼれた。

そのまま…涙をぬぐうこともできず、ひたすら、ただひたすら、フォークを口に運んでいた。


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