【短編】絶対に忘れないこと

優しそうな顔をして、いかにも味方という顔をして、その男はつけ込んできた。

「君を助けたいんだ」
その言葉で、あっさりと陥落した。

***

私は当時、職場で上司からひどいいじめにあっていた。
理由はわからない。
仕事でミスをしたとか、何か気に触るようなことを言ったとか、そんなことは身に覚えがない。
おそらく、気に入らなかったのだろう。

理不尽ないじめと嫌がらせに、同僚たちも気づいていたはずなのに、見て見ぬ振りで、心をすり減らしていた。

そんなとき、隣の部署の課長に食事に誘われた。
どうやら、私に対するいじめは、社内でもうわさになっていたようで、彼もそれを耳にしていたらしい。

食事の席では、その話はでなかったが、彼の言葉の端々に、哀れみとも同情とも取れる、なんとも言えない感情が含まれていることに気づいていた。

食事を終え、駅で別れようとすると、突然、彼が私のほうに身をかがめて、耳元でささやいた。

「君を助けたいんだ」

***

白い天井が見えた。
知らないベッドで寝ている。

昨夜はそんなに飲んだわけでもないのに、体が重くて、枕から頭が上がらない。

コーヒーの匂いがして、ベッドがドスンと揺れた。

***

それから、私は彼の部署との兼任という形になり、精力的に働いていた。

私が仕事で成果を出し始めると、上司からのいじめはさらにひどくなった。
それでも、逃げる場所ができたので、以前よりも会社に行くのがつらいというのとはなくなった。

彼は私と組むことで、いくつもの仕事で成果を出し、彼も私も周りから一目置かれるようになっていた。
一方で、上司からは完全に無視され、さらに上司は彼に対しても執拗な嫌がらせを始めた。

はじめは、彼も気にしていなかったけれど、社内政治は上司のほうがたけていたので、だんだんと仕事がやりにくくなり、窮地に立たされることも増えていた。

仕事が回らなくなってくると、彼はだんだんいらつきだし、周りに怒鳴り散らすようになった。
以前のような優しい、穏やかな彼ではなくなっていたし、仕事に対する姿勢も、投げやりになり、成果も出せなくなり始めていた。

私は彼の味方になり、必死に抵抗しようとしたけれど、状況は悪くなるばかり。

そして、大きなトラブルが起きた。
そもそもの原因は彼の伝達ミスだったが、彼はその責任を逃れ、手続き上、不可避な問題であったと結論づけた。

しかし、それが彼のミスであることを知っているスタッフはその説明に納得しなかった。

そして、彼は、あろうことか私にまで、そのミスが不可避であったと嘘をついたのだ。
私はそのことに気づいていたけれど、口には出さなかった。


そして、心に刻んだ。
この男を信じてはいけない。

もう二度と組まない。
彼は私を都合よく利用したつもりかもしれないけれど、実のところ、利用したのは私。

上司に退職願を渡すと、ケータイのアドレスから彼の名前を探し、躊躇なく削除した。


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