「当事者」であること(1)”研究すること”をめぐって

先日、SNSで偶々目にした「貧困」に関するトークイベントの案内。

そのコメント欄に「学者に貧困がわかるのか」という声がありました。

この声を目にした後、ずっと考えていました。


振り返れば、

私は、「当事者」ではない者としていろいろな研究をしてきました。

修士課程のときには、劇場運営のおしごとをされているひとについて。

博士課程のときには、いわゆる「高齢者」とよばれるひとについて。

最近は、主に小学校で「教員」というおしごとをされているひとについて。

私は、自分自身が「劇場運営者」でも「高齢者」でも「小学校教員」でもありませんが、

そのひとたちのことに関する研究をしてきました。


無論、私はいち「大学院生」そしていち「大学教員」というだけであって、この声を発したかたのいう「学者」ではないかもしれませんが、

”当事者でないと研究できないのか”

と問われれば、かならずしもそうでないと思うのです。

「当事者である」からこそみえてくること、言えることがある、というのと同様、

「当事者でない」からこそみえてくること、言えることがあるのではと。


このかたは「わかる」ということばをつかっていますが、

じゃあ私は、上記2つの研究をして、そのひとたちのことがわかったか、と問われれば、「わからなかった」とこたえます。

そして、研究を経て、「わかっている」とも思っていません。

でも、できるかぎり「わかろうとしたい」とは思ってきましたし、どんなに研究を進めても「完全にわかることはできない」とも思ってきました。


誰かのことを「研究する」とき、そこにはどこか「上から目線」感が漂ってしまうことがあります。

そんな「感」に自覚的になりながら、これからも研究をつづけたいです。


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