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「#読むでつながる」 イベントメモ (メモと言いつつ1万字あるやで)

最所あさみさんと鳥井弘文さんの対談イベントに参加してきました!本をただ読むだけでなく、読むことを通じて社会とどうつながっていくか?生きるうえでどう役立てていくか?そんなお話をたっぷり聞いてまいりました。

書き起こしではなくあくまで聴きながら書いたメモなので、ヌケモレあると思います。しかしそれでもお二人の話の熱量や、キーとなるメッセージは伝わるのではないかと・・・!

ではではお楽しみください。


〜導入トーク〜

・現代では、リレーションとしての「読む」行為が生まれてきている。

・世の中にHOW TOが多すぎる。HOW TOというものは、極論でいうとケースバイケース。だから今日はHOW TO的な話はしません。「私たちは最近こういう角度で世界を見てます」っていう話をするから、聞いた人がそれぞれで「私だったらどうするのか」を考えてほしい。

・「答え」というものは、本の中にない。著者の視点や見方を共有するのが本かもしれない。


⑴ 私たちの「読み方」


ふだんどんなふうに読んでるか?

最所あさみさん(以下、さ):テクノロジーの変化の影響で、一冊を通読するのがむずかしい・・・!すぐスマホに通知がくるから。あと、いいフレーズに出会ったら、今この瞬間にシェアしたい!と思ってしまう。「ここだ!」というのが響いた瞬間にツイートしたくなっちゃう。だからかなりパラレルに読んでる。10冊くらい並行のときもある。Kindleは終わりが見えないのが苦手。
 
 セミダブルベッドの半分が本に占領されてます。本と添い寝してる。寝る前に本を読むけど、その日のテンションで読む本を決めたい。一夜のなかでも並行して2、3冊読む。

鳥井弘文さん(以下、と):僕もパラレルに読む派。Kindleばかり。紙でしかその本が読めないようなときをのぞいてKindle。オーディブルもすごく使ってます。取材で地方に行くことも多いので、移動中は基本イヤホンで聴いている。寝る前はぜったい読まない!布団にあんまり持ち込まない!布団は寝る場所!

:ちなみに読む割合は、ビジネル書と小説でいうと、圧倒的に小説。小説がいちばん学びが深い!ビジネスはハウトゥ的に成形してある。だいたい同じようなこと書いてある。再現性高くしてある。だけど小説だと、主題はだいたい一緒だけど、それぞれのアプローチで書いてある。答えじゃなくて問いをもらっている。

 よくおすすめを聞かれるけど、小説だけは自分で選んだほうがいいと思う。人によってこれまで歩いてきた人生が違うから、響いた小説も違う。いいと思える小説は、5年後くらいにわかる。自分は純文学、特に三島由紀夫が好きだけど、そのよさは5年たたないとわからない。前に読んだ「豊饒の海」の意味が、今やっとわかってきた(いやぁ、色即是空だわ・・・!)。読んでから5年間、ずっとバックグラウンドで考えていた。小説を読むことで、そのあと5年間、考える素地を与えられたのだと言える。

小林秀雄の読書論がすき。「浮かび上がらせること」を彼は語っている。
読んだことでその人が浮かび上がってくる。平野啓一郎の分人主義も賛成だけど、小林秀雄は人は「ひとりである」と言っている。歴史は思い出すという過程である。過去の人の考えにいかに寄り添えるか。知るだけだったら意味がない。いかに想像力を養うかが、読むこと。

 いい小説というのは、人生を経験した人にしかわからないよさがある。すぐに何かを成功させようとするとHOW TOが価値があるけれど、5年後10年後に役立つかというと別問題。

最近の人々の傾向として、「Why」を考える時間が少なすぎる。小説家とは、テーマを明示するのではなく、読み手に考えて想像してもらえるようにする存在。いかに、読み手に考えてもらえるような主題を掲げられるかがキモ。

「問い」はめちゃくちゃ大事。ジブリの鈴木敏夫さんが大好きなのだけど、「わからないことをわからないままにしていることの重要性」について語っていた。わかったふうすることは簡単だけど、わからないことをわからないまま自分の中に放置できることは大事。

 鈴木さんいわく、宮崎駿さんが、今までわからなかったことについて突如話しはじめたりするらしい。「40年わからなかったけど、夏目漱石が言いたかったのはこれだって今わかった!」など。答えがないからこそ、いろんな書き方ができる。宮崎駿がそういう「問い」をもつ人だからこそ、ああいうジブリの作品が生まれるんだろう。

:「整形前夜」という穂村弘の本もいい。

 文章というものは、新聞的なものか、詩的なものの2つにわけられる。生きて行くためには新聞的なもの必要だけど、人はパンのみで生きるにあらず。上手に生きようとすること、とにかく儲けようとすることは難しいことではない。人ひとり生きていく分くらい、稼ぐこと自体はそんなに難しいことじゃない。自分の人生をかけた問いとはなにか、探求し続けることのほうが難しい。人生をかけて考え続けられるようなテーマに出会うことのほうがよっぽど難しい。

 「こころ」はずっと意味がわからなかった。でも今になって、一個一個のセリフの重さや、あそこで先生がなぜこういう行動を取ったのか、今ならわかる。梶井基次郎の「檸檬」も、読んだときは「意味わからんな」と思ってたけど、今になって思うと、年に1度くらい「その気持ちわかるわ〜」と思う日がある。

 古典と呼ばれるもの以外に、ビジネス書でそういう(時間をへて理解するという)経験はない。詩や小説、短歌は、何かを経験する前としたあとでまったく感じ方が違う。ビジネス書のように答えとして明示されている事柄って、時を経て見方が変わることがそんなにない。思い出すことはあっても、変わることはない。小説は変わる。やっぱりそれって、自分のバロメーターになっていく。「これがわかるようになったのか!私!」と思える。そこに物語の意味がある。

:その変化が具体的にわかる場面はどんなとき?わかる瞬間は?

しんどいとき。先日日ハムの監督にインタビューしたとき、「よかったじゃないか苦しめて」という話をしていた。彼が言っていたのは苦しさを肯定する言葉だった。それってほんとうだと思う。苦しいときに思い出す。

 本当にやるせない気持ちになって、せめて檸檬を爆弾だと思って仕掛けることくらいでしか消化ができない気持ちを自分の中に感じたとき、初めて「檸檬」という小説のことを、実感をともなってわかるようになる。

 小林秀雄いわく、「わかる」ことと「知る」ことは違う。わかることは苦労すること。体験していないことはわかったと言えない。 実際にその場面に直面した瞬間にはじめて、「あ〜〜そうだった!」ってわかる。

:ビジネス書は武器を与えてくれるけれど、人生が戦いだとしたら、苦しいときに心を休めたり癒したりしてくれるのが小説だね。



紙の本という存在について

:本は手にとった瞬間から意味がある。読まなくてもいい。「なぜその本を選んだのか?」という深層心理に意味がある。積ん読も悪くないと思っている。基本的に読んだ本は捨てるので、家にある本は読んでない本。だけど、一度捨てた本をふたたび手に取ることもある。そういうとき、手にとったこと自体に意味がある。

:装丁とかタイトルとかも大事。蔵書を大事にする人は、「今日は何読もう?」って思ったときに、本棚が語りかけてくることに耳を傾けるって言いますね。


本だけでなく、Webメディアについて


:メディアごとに読んでる記事はない。シェアから飛んでいく。1コンテンツごとに読む。

:鳥居さんはアーリーな人を見つけるのがうまいですよね。どうやって見つけてるの?

:検索かけることはほぼない。流れてきたものを読む。信頼できる人のレコメンドを読む。

:ニュースってみます?

:見ないですね。荻上チキさんのニュースを聞くことが多い。

:ニュース扱ってる会社にいるけど、じつはニュースを読まない!テレビを持ってないから、ほんとにニュースに触れない。人から最近のニュースを聞くと、そうなんや!って思う。それで困ることもない。

 これという固定のメディアを見ておらず、海外記事しか読まない。日本のニュースって、みんな知ってること。みんな同じ記事をシェアしてる。いやでも入ってくる。ニュースって、みんなが触れられる状態になって摂取しても、ニュースのバリューとしては高くない。そこから手を打ってるようじゃ遅い。その一方で、海外のニュースはぜんぜん翻訳されていない。特に私は小売をベースに見ているので、インスタやアマゾンの新機能も、日本でローンチされるよりずっと前にアメリカではローンチされてたりする。最近ならインドも勢いある。日本に来てからじゃ遅い。

 人があんまりアプローチしてない情報に触れることって大事。

 論文って、案外簡単にアクセスできる。Googleスカラーとかネイチャーとか。読みやすいWeb記事を待ってたら、3歩くらいあゆみが遅れてしまう。自分がやりたい分野の情報は、研究者レベルで取りにいかないと、打ち手がみんな同じになってしまう。

 本とウェブの違いがあるか?と聞かれれば、ウェブはとにかく「最先端」なことに意味があると思う。「人と違うアプローチ」で情報を取りに行くべき。

ニュースの使い方は、早く知るか、どう読み解くか、その2つしかない。就活生のころはよく「日経新聞を読め」なんて言われたけど、日経って、読み解き方を知らないと読めない。何が起きたか、数字がどう変わったかはわかる。だけどその変化が、社会にどうインパクトをもたらしたかは読み解けない。どう読み解くかを、なるべく早い段階で知れることが大事。そのニュースをどう読み解くか、信頼できる人がいるといい。荻上チキさんの番組が僕にとってはそういう存在。

:情報の「読み解き方」を訓練するのが本だと思う。

 ウェブの記事はどんなに長くても1年先の未来しかわからない。本は50年、100年先のことを話してたりする。「隷属なき道」「インターネットの次に来るもの」などの本は、未来の方向性を示唆するものであり羅針盤になりうる。それがないままにニュース情報にふれても、「おお、あのサービス、ローンチしたか」くらいしか言えない。

 かつての上司がよくニュースを共有してくる人だった。それに対し私は、「あなたのフィルターがかかってないとわからん」と上司にキレていた。100文字程度でいいのであなたの見解を聞かせてください、と言っていた。

最近はニュースピックスをメモとして使っている。ツイッターの140字はすくない。noteだと長い。ニュースピックスはほどよい。

 インプットって意識しなくてもみんな絶対やっている。インプットしたものをそのままアウトプットしてても意味がない。そのあいだの、考える過程をみんなやってない。読んだものを1回自分なりに咀嚼する。ある程度、異分野のニュースにもあてはめて、一般化・抽象化していくことが大事。ただ入れた情報を吐き出すだけじゃ、みんなと同じことを言うことにとどまってしまう。

 読書については、「戦略読書」を読んだらある程度の疑問は解決する。(「戦略読書」いわく)他人と同じ本だけを読んでいたら、同じことしか言えなくなる。いかに人と違う本を読むかが大切。

 一般教養として通ったほうがいい古典はたくさんあるし、トレンドとして読んでおくといい本もある(今でいう「ファクトフルネス」とか)。だけど自分なりのユニークな読書体験をすることが大事。


参加者からの質問:どうやって本を選んでますか?

:よく聞かれるけど、著者で買う。「この人!」と思ったら深掘りしていく。最近は、人からのおすすめでは買わなくなってきた。深めることを心がけている。たとえば小林秀雄。そこから本居宣長の「古事記」にいったり。テーマで調べることもある。私がおすすめする本は読みくだしづらいと言われることが多いけれど、知っておいたほうがいいことは全て古典に集約されている。じゃあ今出てる本が価値がないかというとそんなこともない。いきなり論語を読みたいと思っても、難しい。葉隠をぜんぶ読みたいと思ったけど、そのままじゃ難しすぎた。まず漫画で読んで、三島の本を読んで、そうするとだいぶ読みやすくなる。

文章を読むときに、ぶつかる壁には順番がある。文法→単語→熟語→ニュアンス、の順にわからないものがくる。英語も同じ。ニュアンスをわかるようになるためには多読が大事。多読をしていくなかで、だんだん硬い文章も読めるようになっていく。

:渋沢栄一「論語と算盤」朝倉祐介「論語と算盤と私」などは、なかなか今の私たちでは読み下しづらいものも、現代の本を通して内容を知り、いいなと思ったら原典にあたっていく。

 概要がわかると読み進めやすくなる。いきなり小林秀雄はむずかしくても、最所さんのnoteからはじめることとか。

:この人はこんなことが言いたいんだな、というのが、ある人の著作をいくつか読むことで深まっていく。多面的にとらえられるようになっていく。結局は、どの本でもみんな同じことを言っている。それをいろんな角度から知っていく。

:同じ著者の本を複数読むと言うことは、同じ山をいろんなルートで登るようなこと。この著者は誰に影響されて、こういう話をしているんだ・・・という包括的な理解が、ウェブじゃ追いきれない。それを追えるのが本の良さ。自分の気になる人がどんな人をよしとしているのか、読書を通してそういう追い方をしている。難しい本でも、同じ本を2、3周してるとだんだんわかるようになる。

:最近、表紙を見ただけで、いい本かどうかわかるようになりました!目次すら見ない。売れるツラがわかります!それは直感なので、説明はつかないけれど。たとえばアマゾンの関連書籍を見て、「これはいい本けどこれは違う」なんてのもわかる。タイトルセンスの問題かな?あと、装丁にこだわっている本はいい本である確率が高い。気合いが入ってるから。

:料理家が美味しい野菜を見分けられるように、達観?していくもの



参加者からの質問:小説を読むとき、登場人物に自分を重ねますか?

:第三者として読んでいる。

「読書について」を読んでいて、難しいなと思ったことがある。いかに「わたくし」(=自我のようなもの?)をなくすかが大事だと、その本には書いてある。だけど、まったく頭の中を真っ白にするのはむずかしい。「わたくし」を一回クリアにすることによって、逆説的に「わたくし」が見えてくる。いかに、小説の世界に入りつつも第三者でいられるか。主人公に感情移入はしない。

:最所さんの映画評が好き。「美女と野獣」のnoteがいい。


 ふつうだったらベルの気持ちに感情移入するんだろうけど、最所さんは全然ベルの視点じゃない。アトラクションを意識して映画が作られているんだろうって思って観ていたという。

:読みながら、観ながら、「この主題は何か」ということを常に考えている。純文学はつねに何かのメタファー。

あらゆるコンテンツは感情の再生産のためにある。最近、同じ映画を何回も見るようになってきた。「海街ダイアリー」も好きだけど、見終わったあとの「あの感覚」「あの空気全体をまといたい」という感覚で見ている。そのときに引き出される自己に会いにいく。

:その感覚は、エモさの一つでもありますよね


⑵「本」というパッケージの魅力


小倉ヒラクさんの話を聴きました。本は10万字くらい書いてやっと1冊。
 
 普段、私が書いている文章はだいたい3000字未満。3000までは、最初に構成考えなくても書ける。だけど10万となると、最初に構成を考えないとかけない。ちなみに「noteを本にしませんか」という話もいただくけれど、今の私のnoteは800記事くらいあって、内容も熱量もバラバラ。本にするならが、リライトする必要がある。

 本というパッケージにするにはは、その人の思考を再構築する必要がある。よく「会いたいです」「ごはん行きたいです」などと言われるけれど、2時間自分と話をするよりは、2時間、私が書いたものを読んでもらったほうがいいんじゃないかな。

 ちなみに、ウェブメディアで毎日ぜったい読むと決めてるメディアはないけれど、noteは毎日欠かさず読んでいる。noteの文章は、コミュニケーション。今までだったら家族や恋人に話していたことを、より多くの人に共有できるようになった。ウェブの文章はそういうコミュニケーション色が強い。本の場合は、コミュニケーションではなく、その人の講演。

:本は、相手に合わせてレベルを変えてくれない講演ですよね。それは本以外のコミュニケーションでは成り立たない。生で会ってしまうと、会った人の反応によってコミュニケーションの内容は変わる。本は、講演者の視座だけで進んでいく。それが魅力。

:今の時代はアップデート主義。それはそれで悪くないけれど、本はアップデートされない。それが最高!!本は、まるでタイムカプセル。私の好きな本の著者はだいたい死んでるんですよね(笑)作家は死んでからが勝負。生きてるうちは、作品として完成しないから。人生の最後になにを書いたか、がすべて。三島由紀夫はとくにそれが顕著。

:作者が、人生最後の作品に何を込めたいかは大事ですよね

:私のnoteでさせ、たった3年前の作品を掘り起こされるとすごく恥ずかしい。でも本の場合はもっとそうだと思う。著者にとっては、1作品ごとに全然視座が違うはず。でも、それが残っていく。人生をかけた作品性の高さを感じる。kindleだとあとから誤植をアップデートできるけど、紙の本はできない。変えられる世の中だからこそ、変えられないことの価値が上がっていくのでは?

:たしかに、自分の初期のころの文章は、恥ずかしいと思う。だけど、3年前の自分の文章を読んで「いいじゃん」って思ってしまこともある。それは、自分がそこから何も変化していないということ。それはそれでこわい。

:あと最近思うのが、「自分を置き去りにする」って大事だな、と。そのときの自分がなにを考えていたか、置き去りにすることで、あとからそれを振り返られる。文章に限らず、写真とか音楽でもいいけれど。自分を自分じゃないように俯瞰してみる経験は大切。これを何年後かに見たときに、自分は何を感じるんだろう?というのをやってみたい。

⑶本を通して「世界に接続する」ということ

:本もコミュニケーションになりうる。「この本を読んでいる」ということが切符になる。あくまで入場料のような存在になりつつある。「これをそもそも読んでないと共通言語で話せない」みたいなことってたくさんある。

 経営クラスで会議をするとき、月1で課題図書を設定して読書会をするようになったら、共通言語ができて議論がスムーズになった・・・という話を聞いた。それはとても大事なことだと思う。

 自分で読んで、納得して、なるほど・・で終わらせるのではなく、その感覚をシェアすることが必要。読書は自己内省でありながら、世界を知る窓口でもある。

 純文学だけ読んでるとだいたい人は死んでしまう。みんなだいたい死ぬし。そこで社会性を保つ読書も必要になる。鳥井さんの、「自分のことだけ考えてるから鬱になる」のブログ記事が好き。

:自分の知ってる価値観だけで判断すると、世の中って魑魅魍魎なんですよね。その魑魅魍魎を、いかに楽しみに変えるか?という工夫が教養のはじまりなんじゃないか。

世の中のものを、おもしろがるために教養をつける。他人へのマウントではなく、人生をめいっぱい楽しむために必要なことが教養なのでは。知識を得て頭でっかちになるのではなく、楽しく生きる術だと思う。

:どんな未来予測のビジネス書より、星新一のショートショートのほうが現実になっている。オウムの話とか、メタファーではあるけれどGoogle翻訳なんかでも起こりうること。メールのテンプレもオウムの話に通じる。私は、星新一のショートショートを通して、世界の見方というフィルターをインストールしている。

 さっきのニュースの読み方の話もそうだけど、本を読むことは知識をつけることではなく、フィルターを自分の中にインストールしていく作業。読むことで得られたフィルターがかかった状態で、世界を見ることができるようになる・・ということが重要。

 読んだ本は全部線を引く。ドッグイヤーしまくる。気になったフレーズはEvernoteに全部書き出す。だけど意外と、チェックしたところじゃないところを後になって思い出したりする。自分のnoteには引用が多いけれど、それは知識を披露してるのではなく、「こういうフィルターをとおしたよ」という表明。世界と接続するためのフィルターをどうつけていくか。

:結局どの著者も、考えてることって「人間とはなにか」なんですよね。テクノロジーは変わるけれど、人間は変わらない。人間とはなにか、という問いを考えていくようになると、先見性を得られる。ウェブの情報だけをみていると、知識を得ようとして余計迷路に入ってしまったりする。

:どの本を読むか?という質問はよく受けるけれども、「自分の美意識の軸が太くなっている感覚をもてるか」を意識することも、すごい大事。

 私には、自分の言葉で話さない人への違和感がすごくある。なにかの事情を説明しようとしたとき、自分の言葉で伝えられるか。なにかに対して「それな!」という感覚をもったとして、その言葉を因数分解できるか。

自分の体験に裏打ちされた言葉かどうかで、言葉の厚みがぜんぜん違う。自分自身の経験を裏打ちさせて、解釈を自分で考えられることは意識している。「◯◯さんが△△って言ってたた。以上。」で終わってしまうのはよくない。最近出たビジネス書だけを読んでいる人はそうなりがち。

「1日30ツイートは有益なのか問題」もそうだけど、言われていることを鵜呑みにしてもどうにもならない。誰かが「30ツイートするといいよ」って言ってたとして、そのアドバイス鵜呑みにするのではなく、自分と照らし合わせることが必要。そのアドバイスの本質はなんなのかを考えるステップを挟んでいるかどうかで、その人の言葉の厚みが変わって来ると思っている。

憧れの人に「なんの本読んでますか?」という質問をしたとして、その人と同じ本を読んだとしても、その解釈の深度が浅ければ、思った通りにはならないだろう。


〜質問タイム〜

Q:思考が鍛えられるおすすめの本はありますか?

:自分が対話したくなる人が誰か?ということ次第で答えはかわってくる。好きな人の本を読むのが一番大事。答えを鵜呑みにするのではなく、「なぜ自分はこの人の本に共感するんだろう」と考えることと、好きだと思った人のフィルターを通して世界を見ること。結局あの人はなにが言いたかったのか、と何度も考えることで、自分の思考もアップデートされていく。

「何を読む」よりも、読んだものを「どう」判断するかのほうが大事。読む力とはつまること要約することである。最所さんは、圧倒的な読書量とともに圧倒的なアウトプットがある。素振りの練習だけしても意味がない。バッターボックスに立たないと。逆に言うと、読むものはなんでもいいんじゃないかな。

Q:アウトプットの話が出てきましたが、アウトプットが難しい。途中で支離滅裂になってしまう。そこから、もう一歩さきに外に出していくうえでアドバイスやコツはありますか?

出しちゃうこと!

 書いたものを、納得いってなくてもとにかく出しちゃう。僕や最所さんの初期の文書を見ると、あまりにも目が当てられないようなものはたくさんあると思う。出しているうちに、よくなっていく。そこに躊躇してしまう人は多いけれど、「とにかく、出そう?」って思う。アウトプットの繰り返しをしていく先に成長がある。書いたんだったら、ダメでもいいから出してしまって、自分がバカだなぁと思うこと・思われることを恐れないようにする。それでも出したことが勇気につながっていく。

:いったんしゃべるといいんじゃない?書くと、書いてる途中に辻褄合わなくなって来る。しゃべってると、通じることが多い。会話の中で、友達に、「こういう本読んでこう思ったんだよね」って話して見る。そうすると、相手からも質問や会話が返って来る。対話の中で見つけていく。書けないときは、タイトルが決まってないとき。タイトルと1文目と結論が決まってれば書ける。

 文章の練習をするときは、編集か校閲の入った文章を写経するのがおすすめ。Webは校閲入ってないことがほとんどなので、写経するなら紙媒体がいい。天声人語の写経は一時期流行ったけど、あれはよかったと思う!文章のクセをあとから矯正するのは難しいから、まずは、読みやすい、ひっかかりのない文章を写経しよう!

〜〜〜

以上!

本のトークイベントだけど、「何を読むか」ではなく「どう読むか」「何を考えるか」という話をお二人が繰り返し語っておられたことが印象的でした。

先日のヒーコのカメライベントでも思ったけれど、これからの時代、知識や技術をもつことがゴールではない。自分自身がどういう思想の持ち主で、日々、どんなことを考えながら生きているのか。そこがますます大事になってくるんだろうなぁ。

「この機材買いました」「この本読みました」だけでは、通用しなくなる。

こわいような気もするけれど、それ以上にわくわくする。


素敵な夜になりました。

サポートいただけたら、旅に出たときのごはん代にさせていただきます。旅のあいだの栄養状態が、ちょっと良くなります。