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ウェットな感性、ドライな感性

受験生のころ、大量の小論文を読んだ。100か200か、数えきれないほど読んだはずなのに、もうほとんど思い出せない。

だけど1つだけ、いまだに妙に心に引っかかって忘れられない文章がある。シェイクスピア研究で有名な中野好夫による、「多すぎる自己没入型」という文章だ。

原典を探したけれどもどうやら古すぎるようで見つけられず、私の記憶と抜粋になることをお許しいただきたい。こんな話である。

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あるとき、目の前で人がコケた。

そのとき、人々の反応はこんな風に分かれた。


「キャッ」とか「アレッ」とか同情の叫びを上げて目を覆う人。

「ヘッ!ころびやァがった!」とひょうきんに笑う人。


日本では、他人の危険を目の前にしたとき、「キャッ」とか「アレッ」とか同情の叫びを上げるのがやさしいとされ、好まれる。

反対に、「ヘッ、ころびやがった」という反応をすれば、心が冷たいと批判される。しかし、彼は「ころびやがった」に妙に心惹かれるという。

目の前の人が瀕死の重傷だというならまだしも、こんな小椿事で心を痛める必要は果たしてあるのか?と彼は問いかける。

「キャッ」というのは、見ている対象への自己没入だ。対象と自分の心の距離が近い。いっぽう「ころびやがった」は、対象と自分との距離感の余裕から生まれる。

前者はウェットな感性、後者はドライな感性と呼べる。

ユーモアは、対象と自分とのあいだに距離があるとき、すなわちドライな感性からしか生まれない。なのに日本人には、総じてウェットな感性の「自己没入型」があまりに多すぎるのだ。

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ざっくりまとめるとこういう話だった。

この文章を読んだ当初、私は猛烈な反発心を抱いた。なぜなら私こそが、筋金入りの「自己没入型」人間だったから。

目の前の人が転べば「キャッ」と声をあげ、すかさず痛みに共鳴することこそがやさしさだ、と思っていたから。


だけど最近になって、考えがすこし変わってきた。「すべてのことは寄って見れば悲劇、離れれば喜劇」だなんて言われることもあるけれど、まさにそうだと思う。

なんでもかんでも距離感が近いと、笑い飛ばせるはずのことまで、すべて悲劇に思えてしまう。

心の距離感が近いウェットな感性をもつが決して悪いことだとは思わないし、やっぱり今も自分のベースは「ウェット」だと自覚してはいる。

だけど今の自分の距離が「近い」のか「遠い」のかは、常に意識していて損はないだろう。

自分が転んだときも、「かわいそう私、めそめそ」だけでなく「ヘッ、転んじまったぜ」と言える選択肢は持っていたい。


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