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【映画レビュー】ミスエデュケーション

「百合」というジャンルと、「レズビアンもの」というジャンルを分けるべきか同じと考えるべきかは、何年も前から議論されています。
この映画は、レズビアンが主人公の作品ですが、恋愛ものではありません。
そういう意味では「百合」とはいえないのかもしれません。
しかし、百合を愛する百合人の中に、確実にこの映画を観たい人はいると思うのです。今回はそんな「レズビアンもの」映画をご紹介します。

『ミスエデュケーション』は、同性愛者矯正施設に入れられてしまった10代のレズビアンの物語です。

高校生のキャメロンは、「プロム用の彼氏」みたいな男の子もいるけれど、本当は仲良しの女の子コーリーとの恋に夢中。しかし、コーリーとのセックスをあろうことかその彼氏に目撃されてしまう。親代わりの保護者で保守的なクリスチャンの叔母にもバレて、同性愛者の矯正施設「神の約束」に入所させられるキャメロン。
そして、そこで築かれる新たな友情と、キャメロンが自分でいるための静かな闘いと葛藤、傷つき。やがてキャメロンが見つけるありのままで生きていくための道とは…?

日本ではDVD発売のみのソフトスルーされてしまった作品ですが、マイノリティの少年少女たちが生き抜く困難と希望を映した名作です。
主人公を演じるクロエ・グレース・モレッツのみずみずしい演技と前髪をかき上げたヘアスタイルがなんとも魅力的。

キリスト教徒の経験から見るミスエデュケーション

実はこの映画を観た時に、百合やレズビアンとは少し違う観点で個人的に心がざわつくところがあり、レビューをどういう方向で書いたらいいか迷いました。それは、私自身のキリスト教徒として経験からくるものです。

私は親の意向で赤ちゃんの時に洗礼を受けた「幼児洗礼」のクリスチャンなのですが、聖書の言葉やキリストの生き方には共感や思い入れがあると同時に、教会や信者のある種の雰囲気には拒否感情を持っているという複雑なアイデンティティがあります。

おそらくキリスト教の教会文化に触れる機会のあまりない人は、この映画の矯正施設の様子を、子どもたちの人権を奪う異常で非日常的な場所と感じるのではないでしょうか。
私自身も、矯正施設については不勉強で、カルト的な洗脳や暴力的な支配が行われる恐ろしい施設のイメージがありました。
しかし、映画に出てきた施設の雰囲気は、私にとって既視感のあるリアルな情景だったのです。

教会でガチガチの同性愛差別の言動を取る人には、実は今まで出会ったことはありません。この映画の舞台である1993年よりは、同性愛絶対拒否みたいな人は世間一般にも教会においても減ってはいるのだと思います。

それでも、「神を信じること」=「善い人間になること」みたいな共通認識は、私の心に違和感を生むものとして存在し続けます。たぶんこれは時代が変わってもずっと存在し続けるような気がします。こういう文脈で語られる「神を信じること」とは一体なんなのか、私はいまだにピンときません。

子どもや若者は、根本的には「悪い人間」より「善い人間」と呼ばれたいと思うものだろうし、大人から伝えられる「善い人間」像をそのまま信じてしまうことも多いと思います。
『ミスエデュケーション』に出てくる矯正施設の子どもたちは、「善い人間」になりたいという願いから同性愛を「治そう」とします。この姿は、「善い人間」になるためには「神を信じること」が必要だと考える多くのクリスチャンの姿に、私の中で重なるのです。

映画では、矯正施設の治療を受け入れながらも、父親から「お前はまだ女っぽく弱々しい」と否定された男子が、錯乱しながら聖書の一節を叫び続けるシーンがあります。

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」(コリント人への第二の手紙12.9)

この時、この矯正施設のさまざまな面が聖書に書かれていることに反すると気づかされるのです。
ちなみに私の好きな聖書の一節には、「裁いてはならない」(マルコ7.1)という言葉があります。
子どもたちの弱さや間違った点を裁き、正そうとする矯正施設の矛盾が、浮かび上がってきます。

日常の延長線上に

もしかしたら、この矯正施設に似ているものは、宗教に関わることのみならず、もっと日常の中に存在しているのかもしれません。

あるところでは、「成功する優秀な人間」にならなければ認められない。またあるところでは「生産性のある人間」に、またあるところでは「多数派の人間」に、またあるところでは「病まない強い人間」になることを、人は学校や職場など、それぞれのコミュニティで求められながら生きている。
求められる人間でないことは「悪」とみなされるために、皆必死にその枠の中に入ろうとする。

これらはどれも、同性愛者をはじめ性的マイノリティにとって、道を閉ざされやすい枠組みです。

キリスト教保守派において「善い人間」であることを求めすぎるがゆえにマイノリティへの差別に走る現象は、一般社会でも、決して特殊なことではないのかもしれません。
だからきっと、この矯正施設の描写は、とても日常的に見える。

人間をひとつの枠の中に押し込め、これが真実で常識で善であるとする教育の恐ろしさは、日常の中に潜んでいます。世間は常に、ありのままの自分であることを否定させようとするメッセージで溢れている。

そんな中で、キャメロンを勇気づけるのは、同じように施設に疑問を持つ同年代の仲間の存在です。仲間とともに、ありのままの自分を肯定し、自分を憎まず生きていく道を見つけようとするキャメロン。
キャメロンとマイノリティの仲間たちの姿は、同性愛者を不自然で歪なものとする人々よりも、ナチュラルで真実味がある、みずみずしい若者たちの姿に映ります。

この映画が名作たり得るのは、「一部の同性愛者が置かれる苛烈で残酷な状況」を描いたものではなく、ほとんどすべてのマイノリティの日常に、道徳や常識や自己啓発のような姿をして現れる、じわじわとした抑圧を描いていることにあるのではないかと思います。
そしてそのさりげない抑圧は、命すら奪いかねない危険なものであることも、この作品は示しています。

そして現在、この映画の原作小説『The Miseducation of Cameron Post』の翻訳版出版に向けたクラウドファンディング企画が進行中です。
映画は原作の前半部分をかなりカットしているそうで、映画を観るとよりこの原作を読んでみたい気持ちが沸きます!
1000円からの支援や、電子書籍や紙媒体の書籍が特別価格で買える支援方法もあるので、ご興味持ってくれた方はぜひご検討を。私も読みたい!

(文・宇井彩野)

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