写真が楽しくなかった頃

「人として」写真を撮るということについて書かれた文章を読んで。
ああ、となんだか腑に落ちた気分になった。

もう随分と昔の事になるのだけれど、写真が全然楽しくない時期があって。

何を撮っても、なかなかピンとこなくて。
何を撮りたいのかも、よくわからなくなっていて。

迷ってるなぁ、って自分でも感じていた。

今なら、その理由がわかる。
自分の為に、自分の心の為に撮っていなかったからだ。

写真教室での課題の為に、人に見せる為に。
あの時期は確か、そういう意識でシャッターを切っていたんだった。


そのせいか「うわぁ、これ撮りたい!写真にしたい!」
ってハートから出る想いよりも。
「お?これはネタになるかも?」的な意識の割合が多かったように思う。

そうやって撮ったものは。

教室で写真を見せていても、自分が撮ったものなのに響いてこなくて。
なんかピンと来ないなぁって、腑に落ちない気持ちを感じ続けていた。


あれは「人として」ではなくて。
作業として写真を撮ってしまっていたんだね。

そこには相手に何かを伝えたい、っていう気持ちも無くて。
うわぁ…!っていう、自分のキラキラした想いも無くて。

ただ空っぽの、悪くは無い何か、があるだけだった。



一方で、今は。

仕事で撮っている事の方が多いんだけれども…
その頃よりもずっとずっと、そこに気持ちが篭もっている。

自分の中に響く、キラリンを形にしようと奮闘していて。

対象に向ける愛のせいか、単なる作業に止まらず。
なんだか、とても楽しい。


仕事ともなると、人に見せる為に…という部分は
どうしてもあるのだけれども。

自分にとっての「わぁ、素敵だなぁ」を探して、出会う。
そうやって心を、写真の中に残していく

それだけで何かが変わってくる、作業感が薄れる気がする。

そして、そのせいなんだろうか。
完全に「人として」撮っているとはいえないのだろうけれど…

「他人はどうか知らないけど、自分はすっごく好きだな」
って自分の撮ったものを見て感じる事が、あの頃よりも増えた。


自分が自分のファンであり続ける為に。
撮った写真を眺めながら、でれでれする為には。

その写真の中に、心の欠片が存在する事。
それが必要なんだなって今なら思う。

そうしたら。

写真の中に残された欠片に反応して、ハートがくるくる喜んでくれるから。
自分にとって退屈なものにだけは、ならないんじゃないかな。

他人の視点となると、また別の話になるんだろうけどね。


最初に読んで、刺激になったnoteはこちら。

「撮る時は人として」
https://note.mu/ninonino135/n/n6999c19dac48

写真家さんだというのにも関わらず。
「響く文章」に惹かれ、フォローさせて頂いてる方で。

写真への自分自身への誠実さが実に魅力的で、心揺さぶられ。
更新を読みに行く時は、いつもワクワクします。

自分とは撮る対象も、使う道具も、スタンスも…
色々な物が違うというのに。

それでも惹かれ、魅力を感じる。
もっと話を聞きたい、と思わされる。

そうあろう、という姿勢に惹きつけられるのかもしれません。

写真が好きで、人の考えを聞くのが好き。
そんなあなたは、ぜひご一読を…


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