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他人と写真を撮る意味

先日、ひさびさに参加者の立場でワークショップへ行ってきた。

「街撮りして、セレクトして、見せる」
それを東京から来た写真家さんに講評してもらう、という内容で。

"見せる"を意識して自分が選んだのは、結局たったの3枚。


「午前11時の歓楽街」(広島・流川)


単体で好きな写真ではないし、そういうのは他にあったのだけれど…

「言葉の枠で縛らない」「説明的な写真は選ばない」という先生の言葉を念頭において、選ぶならば。今回撮影したものの中ではこの並びの組合せが、"見せる"という点においてはベストだと判断した。

ただ出来上がったものを見て。満足感はあれど、熱は足りないのでは…と感じた。

プリントした枚数も選ぶのにかけた時間も、他の参加者より断然少なくて。みんなが何を選ぶか迷っている間に、さっさと終わってしまったのだ。枚数がどれだけ少ないかというと、一桁違う。皆が100枚はプリントしている中、自分が残したのは50に満たない数だった。

元々、無駄なカットはどんどん消していく方で。被写体を目にした段階で、光の状況や出来上がりを想定して。経験からこれはダメだと思うと、撮影対象から外したりもするし…何より、撮影中でも定期的に確認しながら必要ない物は消していく。試行錯誤しながら、しつこく10枚以上撮ろうとも。最終チェックまでの間に、その中から1~3枚程度までに必ず絞る。

そうするとプリントしようという段階で、すでに要不要のチェックはある程度すんでいて。大量の不要なデータに煩わされることはなくなる。

似たような構図設定のものを何枚も残しておくと、不要な迷いに繋がるのが嫌なのだ。似ているだけになかなか選びきれない、時間だけが過ぎてゆく。それならば最初の段階で、スパンと割り切って選んでしまう方がいい。迷いに迷って選んでも、他人から見れば大した違いのないものならば。自分の直感でピンときたものに絞ればいい、時間の無駄はいらない。


自分にとっては、これが普通。
しかし世の中そうでもないらしい。

100枚も200枚も撮った中から、選ぶ人もいる。どうやら比較してみるに、自分は迷いが少ない方みたいだ。思っていたより、合理主義なところがあるのかもしれない。


迷いたければ迷えばいい、それは必要な時間。
迷いたくないなら、それもいい。

どちらが正解というわけでなく、これは単なる個性の話だ。

こんな風に人と共に何かをするというのは。普通が揺らいで、自分の輪郭が図らずも浮き出るようなところがあって…それこそが他人と一緒に何かをする、楽しさなのかもしれない。



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