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思い出すこと、それから

 僕が中学生の時(本当のことを言えば高校もそうだ、きっと今も)一番好きな作家は池井戸潤だった。ちょうどその頃にドラマで半沢直樹がやっていたということもあるし、父親も母親も池井戸潤のファンだったこともある。村上春樹よろしく「14歳の僕を魅了したのはフランツ・カフカだった」と言えればよかったのだが、そんなことはなく、僕が思春期に愛した作家は流行の日本人作家だった。

 僕の家には自分の部屋がなかった。今はある。空いた姉の部屋が今は僕の部屋になっている。それなのに、本しか置いていない部屋がうちにはあった。いわゆる書斎。とはいえ父親はそこで仕事をしていない。書斎と言うと仕事部屋という感じがするが、うちには事務室があり、父はそこで仕事をしていた。
 池井戸潤の小説が置いてあったところはそんな「書斎」(僕は小さな図書室と呼んでいた)の入り口の上の棚。僕が手を伸ばしても届かない場所に無秩序に、まるで研究者のデスクのように乱雑におかれていた。きっと大きな地震が起きたら単行本が誰かを殺すことになるだろう。僕はそんな棚に向かって、椅子の上に立ちながら懸命に手を伸ばしていた。単行本なら「ルーズヴェルトゲーム」、「ロスジェネの逆襲」、「空飛ぶタイヤ」、「七つの会議」、「民王」、「鉄の骨」、「仇敵」、「下町ロケット」「M1」に「果つる底なき」などなど、文庫本だったら「オレたちバブル入行組」、「オレたち花のバブル組」はもちろんのこと、「銀行総務特命」、「銀行仕置人」、「シャイロックの子どもたち」…あげ始めたらキリがない。
 
 彼の小説の面白いところは、仕事という現実を知れること。人生酸いも甘いもとはよく言ったもので、苦虫を潰さないといけないことも少なくないし、かといってあくまで彼の虚構ではという枕詞こそついてしまうが、希望もある。半沢直樹のような。
 まぁとはいってもそれは後付けみたいなもの、実際はどんでん返しというか発想の転換のようなもの、何かを生み出した、もしくは達成した時の高揚感を味わえる。それに尽きる。だから僕が彼の小説の中で一番好きな「ルーズヴェルトゲーム」の中でも一番好きなシーンはあの副産物の小型のカメラレンズをスマートフォン用として売り出すシーンだ。発想の転換とあの徐々に熱を帯びていくような空気、それから訪れる爆発的な高揚感を僕に何度でも感じさせてくれる。
 そうして僕は池井戸潤の沼にはまり、成熟しきっていない身体を懸命に伸ばし、また次の池井戸潤の著作に手を伸ばしていた。

 まぁきっと僕は「大人」に憧れていたんだと思う。池井戸潤の小説は面白いけど、中高生が読むような題材じゃないと今になって思うのだ。それらの小説はあまりにも「夢」と「現実」があり過ぎる。
 それに昔から自分の部屋もないような窮屈な「実家」から早く抜け出したい、自活したいという思いもあった。

 そして、二十歳を越えた僕は名実ともに「大人」になった。まだまだ子どもっぽいところはあるけれど、それを差し引いたとしても大人といって差し支えないだろう。まだ自活することは出来ていないけど(大学受験失敗してしまったせいだ)、まだ当時思っていたような大人像からはかけ離れているけれど、「大人」になった。もう今では池井戸潤の小説はほとんど読んでいない。今僕の好きな作家は村上春樹だったりする。村上春樹の小説は読み返すけれど、当時の僕ほど同じ本を何度も、何度も、何度も読み返すことはしなくなった。僕はしっかりと変化しているみたいだ。仕事だって本当はしたくない。半沢直樹みたく面倒事なんてこっちから願い下げだ。「やられたらやり返す倍返しだ」なんてのはごめんだ(原作ではほとんど言ってないというか言ってたか分からないくらいだけれど)

 
 こうして昔を思い出していると、自分というものがどこか不鮮明になる。これがルーツかと思うけれど、どこか他人事というか、道がつながっていないような気がする。それでも記憶は繋がっている。池井戸潤の小説は僕の中に残っているし、それはどこかで僕を型作り、僕を僕として現存させている。来年には本格的に就活だ。もう一回くらい読み直してみようかなと思いながら僕はこうして文章を書いている。
 読み返していると、なんだか気恥しい、そう思い僕はデリートボタンに手を掛ける。しかしそのボタンは押されることはなく、僕は推敲もせずにこの記事を投稿する(書いている時点ではまだしてないけど)、今日くらい思春期の思い切りの良さを思い出して実行してもいいだろう。僕だってまだまだ若者だ。老いを語るには早すぎる。瑞々しさを保つために、自分を正しく知るために僕は公開設定ボタンを押す。これが後悔の設定とならぬことを願いながら…
 


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