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輪島の避難所に来て、沢山の想いを受け取った。

【被災地支援に来て、輪島の地で生きる人の想いを受け取った】

輪島市にある福祉避難所ウミュードゥソラ。

医療や介護が必要な方が、2次避難先を見つけるまでの間避難する場所です。避難所では多くのボランティアのナース、ヘルパー、歯科衛生士、管理栄養士が泊まり込みで入っていて、高齢・障害被災者のなれない生活を懸命に支えています。

様々な専門職合同の朝ミーティング

僕は1/27~2/3までケアワーカーとして、支援に入っていました。

その中で印象的な出来事が1つありました。

輪島市で生まれ育ったMさん。避難所の中で、ムードメーカーであり、常に僕たちにいろんなことを教えてくれる。職業は寿司職人。「すし畔」という寿司屋を開店し、10年ほど前に引退されている。自宅の1階が寿司屋、2階が自室。Mさんと話していると、すし畔は地域の人たちに愛されてきた場所なんだと感じる。

被災した"すし畔"とMさん

実は、今から16年前、2007年にあった能登半島地震で、唯一の被害者がMさんの奥さん。

地震によって奥さんを奪われた。

そして、今回の2024年1月1日の地震で家は半壊。現状では住める状態ではない。

2度の大地震によって、Mさんの大切なものは奪われていった。

僕が避難所に来てMさんと出会い3日目に、この話を教えてくれた。

Mさん取材記事

僕は言葉を出すことができず、ただただ話を聞いていた。

その日の夜、避難所の備蓄庫にいくと稲荷寿司のお揚げがあった。彼の人生の大半である”寿司を握る”そして、その寿司を食べた周りの人が”美味しいよ、ありがとう”と彼に伝える。そんな機会を作るのが、僕のできることかもしれない。と思った。

僕はすぐに彼の元へ行き「明日、稲荷寿司を握ってくれませんか?」と話すと、「おう、ええよ。」と二つ返事で返してくれた。その後、「どうせなら、すし畔に行って、昔使ってた飯切り(酢飯を作る桶)取りに行こうや」と提案してくれた。

次の日の朝、僕たちは被災した彼の自宅へ行くことに。多分、僕たちに被災の現状を見せようとしてくれたのだと思う。

彼の自宅へ行くと、1月1日とまったく同じ状況だった。

聞いていた以上に建物は歪み、家財は倒れていた。その中で、飯切りや、すし畔で使用していた輪島塗の箸、寿司桶などを見つけ、持ってきた。

倒壊した2階
被災した家を案内してくれるMさん

その後、地震があった直後は、家のどこにいて、どう避難したのか、事細かに教えてくれた。

僕は、涙が出た。そして、彼の持つ人としての優しさや強さを感じ、どうしようもなく、ただただ感謝をしていた。

寿司道具を回収し、避難所に戻ってくると、さっそく稲荷寿司の準備に。合計60個。慣れた手つきでどんどん作っていく。あぁ、こうやって寿司を握って生きてきたんだな。彼の人生そのものなんだなと、寿司を握る姿を見て感じた。

並べられた稲荷寿司は、とても綺麗でエネルギーに満ち溢れていて、僕の人生の中で一番、色々な想いのこもった寿司だった。

スタッフも避難者さんも、彼の握った寿司を食べて「本当に美味しい!ありがとう!」と彼にたくさん声をかけていた。

その光景を見て、僕は、彼の人生を聞かせてもらい、お寿司を握る機会を作ることができて本当に良かったと思った。

しかし、今回彼にとって良かった出来事なのか、僕はわからない。僕のお願いを聞いてくれたが、彼自身がやりたかったことなのかはわからない。ただ、彼は少なくとも、自分の大切にしてきた家に行くことで、何か僕たちに伝えようとしてくれていたんだと思う。その想いを受け取り、次に繋げていくことが、僕たちのできること。

被災直後、自分の生活の先行きも、ずっと生きてきた輪島の地の先行きも、まだ見えてこず不安を抱え生きている中で、他人を気遣い、行動しているMさん。僕は彼から、はかりしえない経験を受け取った。

これは、この地域のために活動し続けてきた、代表の中村悦子さんはじめ、この輪島の方々、被災地支援に来ているメンバー、全国各地で支えてくれている方々が居てこそできること。本当にありがたい。

Mさんはじめ、この避難所にいる方が、次の生活を少しでも余白を持って考えられるように、心身ともに健康で、ほっとできるように安心を届けるために、僕たちはサポートをする。

そして、自分が暮らしている地域へ、少しでも還元をしていく必要がある。

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