好きの押し売り

高校の文芸部時代の後輩で、Aという人がいた。Aは、日頃からペンネームを名乗っていた。(本名もペンネームも頭文字はAだ)
Aはとても器用だった。割と何でもサラサラと書いた。
自分の好みもはっきりしている人だった。というか、Aは、自分自身の感受性のみを信用していた人だったんだと思う。

当時私は、好きな曲を周りに聴かせようと押し付けてしまう愚をよくやらかしていたのだが、そんなときAは、
「人からオススメされるものを自分は絶対に聴かないし好きになることはない」
といって私の布教活動じみた好きの押し売りを断ってくれた。このとき遠慮なくそう言ってもらえてよかったと思う。

私が好きなものはきっとあなたも好きになる、というように、親しい人と感覚を同期しようとしてしまうことはよくあるのだけれど、他者は他者であるから、それは実現しない。
私が好きなものは、私が好きなんであって、他者が好きなものではない。私が好きなものを好きになる他者を期待するのはとっても自分勝手なことで、他者が好きになるかどうかは他者に委ねられている。
そんなことを、はじめて理解した。

なので、それからは、好きを好きと言うにとどめるようにしている。

なぜこのようなことを書いているかというと、今日は休みをとって東京まで出てきており、これからとあるアーティストのライブに行くのだが、最近この布教欲が湧いてきてしまってオススメしたくて仕方がないのだ。でも、それにはもれなく「あなたにも好きになってもらいたいしもらえるはずだ」という期待がついてきてしまうので、それをグッとこらえている。

そのバンドとその中心人物も、頭文字はAだ。
Aのことを、高校のことを、思い出す。

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