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中村俊輔への巡礼

 「太陽に出会う旅」を僕は経験した。太陽から照らされる光は荒々しさとは無縁であり、心を包む柔らかさを湛えている。フィラデルフィアの市街地にある学生寮の片隅に、飼育箱のような部屋がある。そこは僕が一日のほとんどを過ごす空間だ。一年間の留学のため、半年前に渡米した僕は、サイズが微かに合わない服を着るような毎日を過ごしていた。寮の食堂で日々供されるピザや潤いに欠けたサラダなどの食事も、顔を隠す布の多さに比例して募る、凍てつくような寒さも、その感覚に拍車をかける。少し離れた場所にある別の寮に住む日本人たちと親しくなった。しかし、服のサイズは合っても、ボタンが一つ欠け、袖にほつれがあるような違和感が消えることはなかった。

 僕は太陽が顔を出す半分の時間を床に敷いたマットレスの上で寝て過ごした。そして、月光に導かれるかのように夜露の息吹が身体中を満たしてから、僕の一日が始まりを告げる。マックに向かってレポートを書き、煉瓦のような美術史の参考書を眼の前に開く。テストに必要な情報を脳内で終わりなく再生した。勉強が終われば、ゴリラズやフー・ファイターズなど、好きな音楽を朝までランダムにかけて、図書館で借りた村上春樹の小説や友人たちとのチャットを楽しむ。それが僕の世界だった。

 組み立てた積み木を必死で守る幼児のように、僕は自分で築いた世界を愛でた。マックを中心とした半径二メートルは僕に安らぎを与え、外界とつながる回路の役割を果たした。その小さな回路の中で、中村俊輔は束の間、僕が感じていた違和感を彼方に追いやり、前を向く活力を与えてくれた。緑と白のユニフォームを身にまとい、スコットランドの屈強な男たちを華麗な足技と身のこなしで翻弄する。バレリーナのような優雅な舞から鮮やかなゴールやアシストが次々と生まれる。縦長の長方形に縁取られた窓から見える暗闇が徐々に朝の色を帯びていく中、僕は止まることなく、彼の動画を見続けた。彼は僕にとっての太陽だった。

 授業を終えて部屋に帰り、その日も昨日と寸分の狂いもないような一日を紡ごうとしていた。近くの売店で売られている、ピクルスの主張が強いチキンバーガーをいくつか買い、マックの画面を見ながら頬張った気がする。十一月二十六日、その日は胸を踊らせる時間が僕を待ち受けていた。チャンピオンズリーグのグループステージ、セルティック対マンチェスター・ユナイテッドの一戦だ。シーズンの始めからセルティックは好調を維持していた。リーグ戦では堅実に勝ち点を重ね、チャンピオンズリーグでも欧州の列強を相手に奮闘する。マンチェスター・ユナイテッドには敵地で敗れるも、コペンハーゲンやベンフィカを相手にホームではしっかりと白星を積み上げていった。嘘のようにリスボンでのベンフィカ戦に完敗したことも、どこか隙を感じさせる脇の甘さのように思え、中村が所属するこのチームに対し、僕は次第に愛着を覚えるようになった。それはアメリカの空気になかなか適応できずにいる、自分自身を投影していたのかもしれない。

 中村は中心選手として、セルティックを牽引していた。オールド・トラッフォードでは低い弾道のフリーキックを沈めた。コペンハーゲンやベンフィカを相手にしても、彼の妙技は冴えを見せる。チームの中心には彼がいた。彼のプレーを追い、活躍すれば友人たちにその事実を伝える。フェイスブックが流行り始め、世界とのつながりが尊ばれるようになった日常においても、僕の世界の大半を占めていたのは中村俊輔だ。決勝トーナメントへの進出を懸けた重要な一戦。それは僕にとっても、もたらされる日々の潤いが変わることを意味していた。僕の部屋にはテレビがなかった。他の学生の部屋には置いてあったのかもしれない。しかし、その時間は僕にとって特別なものだ。他人と簡単に分かち合えるような時間ではない。芳醇なウィスキーの味と香りを堪能するかのように、僕はその時間を存分に噛み締めたかった。

 UEFAが提供する試合速報に視線を傾ける。文字だけが定期的に更新される画面を見続けることは辛かった。そのため、画面に何割かの意識を寄せながら、レポートを書いたり、参考書を読んだりしながら、残った空白を埋める。中途半端な時間の使い方だとは思うが、その前時代的な行いを快く感じた。セルティックはマンチェスター・ユナイテッドを相手に健闘していた。動きは視界に入らない。しかし、文字だけでも、食らいつくように懸命に守備をし、失点を防ごうとする気迫のようなものが伝わってきたことを覚えている。均衡は保たれたまま、試合は終盤を迎える。その瞬間は急に訪れた印象がある。空港のカウンターボードのように文字だけが淡々と変化していた画面の上で、画質の粗いアニメーションが大きなうねりを見せる。何かが起こった。それはセルティックにもたらされたゴールだった。忍耐を強いられていただけに、価値のある一点を我がことのように喜ぶ。次の瞬間、得点者が発表される。そこには小さく“Shunsuke Nakamura”の文字が刻まれていた。信じられなかった。彼を信じていなかったわけではない。しかし、絶対強者を相手に計り知れない価値を持ったゴールを叩き込み、彼は僕に限らず、セルティックを愛する多くの人々にとっての伝説となった。そんな瞬間だった。そこまでの言語化はできていない。しかし、その瞬間に去来する思いの裏には、そういった機微が存在する。劇的さの欠片もなく、画面は試合が終了した事実を僕に伝える。

 少しの間を置いて、ゴールの動画をユーチューブで見つけた。セルティックのゴールに近い位置だろうか。ゴールを守るボルツに近い場所からの映像だった。画面の右端から中村が現れ、左足を振り抜く。硬さや力みのようなものは感じない。放たれたボールは山脈のような赤い壁を越えて、ゴールの右上にゆっくりと吸い込まれていく。ファン・デル・サールが飛び、左手を目いっぱいに伸ばすのを嘲笑いながら、ボールはプログラミングされたような正確さでゴールネットを揺らす。センターバックのマクマナスが右手を振り上げて左へと駆け出す。スタンドライトからの淡いオレンジ色の光が漏れる、薄暗い部屋の中で、僕はその映像を何度も見返した。口が半開きになり、しばらくははにかんだような表情が消えることはなかった。学生寮の中に整然と並ぶ部屋の一室にいる僕は、他人と感動や喜びを共有することもせず、一人でマックの画面に向かって想いを巡らせ続けた。客観的に見ても、主観的に見ても、僕は開かれた世界に身を置いていたとは言えない。しかし、僕はセルティックが勝利を手にする過程を追い、伝えられる文字情報から試合の趨勢を頭の中で想像した。マンチェスター・ユナイテッドの強力な攻撃陣を前に、必死の形相で守る、セルティックの守備陣。身体の衝突音。画像でしか見たことのない、セルティック・パークの空気や匂い。そして、太陽たる中村俊輔が見せた圧巻のパフォーマンス。穏やかに燦々と輝く太陽の下、僕は紛れもなく、世界とつながっていた。

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