〈複製技術〉時代の短歌(「かりん」2021年7月号)

 思想家ヴァルター・ベンヤミンが、その名論「複製技術時代の芸術」において、台頭する映画や写真といった複製技術が二十世紀の芸術に及ぼす影響を論じ、芸術の大衆化に対する危機感を著したのは、一九三六年のことであった。〈複製〉による大量生産・大量消費の始まりは、十五世紀のグーテンベルクによる活版印刷術の発明に端を発しているが、そのときの〈複製技術〉は書物の〈複製〉という極めて限定された用途を持っていた。ベンヤミンが映画や写真という進歩した〈複製技術〉を論じてから九十年近くがたち、いまや〈複製〉は芸術や文学の世界にとどまらず、われわれ〈人間〉までもがその対象となりつつある。

〈複製〉に対する生身の人間の複雑な心境は、現代短歌を読み解くひとつのキーポイントである。これまでは短歌における主体=人間はたったひとりの、容易に〈複製〉できない唯一の存在であることが前提とされてきた。しかし、現実になりつつある〈人間〉の〈複製技術〉はその唯一性を脅かし、われわれのかけがえのない存在が大量にコピーされるという恐怖と戦わざるを得なくなったのである。

誰ひとりきみの代わりはいないけど上位互換が出回っている 

宇野なずき『最初からやり直してください』


わたくしも誰かのカラーバリエーションかもしれなくてユニクロを出る  

辻聡之『あしたの孵化』


 宇野作品はいわゆるSNSで「バズった」=大量に拡散された作品としても有名であり、それ自体が現代という「二十一世紀型〈複製技術〉時代」のトレンドを象徴しているとも言えるだろう。〈誰ひとり君の代わりはいない〉という唯一性の肯定から、しかし〈上位互換が出回っている〉というドライな言葉が突きつけられる。それは反転すると、〈代わりはいない〉はずの〈君〉の存在でさえも容易に〈複製〉されうる、つまり、「お前の代わりはいくらでもいる」という、非情な現実を示している。そして、この歌がSNS上で拡散されること、つまり、不特定多数の〈君〉がこの歌を見てしまうことそのものが、まさにその画面の向こうにいるかけがえのない〈君〉を〈複製〉するプロセスとなっている。

 辻作品は、自らが〈複製〉されているかもしれないという事実を冷静に、しかしある程度詩的なまなざしで見つめている。ユニクロという現代の大量生産・大量消費社会を体現する〈複製装置〉にあって、作者は自らの唯一性ではなく〈複製〉性を、〈カラーバリエーション〉という言葉で認識する。しかし、そこには〈かもしれない〉という一定の留保もある。宇野作品・辻作品にはともに唯一性と〈複製〉性をゆれうごくアンビバレントな感情が認められるが、悲観的な宇野作品の〈上位互換〉と比べると、辻作品の〈カラーバリエーション〉には、そのなかでうまく立ち回ろうとするような図太さや、バリエーションの中で少しの違いを価値として認識してもらいたいという人間としての意地のようなものも感じられる。


 ところで、こうした人間の〈複製〉という問題を文学的・人間的知見から掘り下げてきた文学者に、ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロの名を挙げるのはさほど難しくないだろう。『わたしを離さないで』(二〇〇五)でイギリス伝統の寄宿学校を思わせる〈ヘールシャム〉という清廉な施設を舞台に、裕福な人間の臓器提供のための〈クローン〉という運命を背負った子どもたちの群像劇を描いたイシグロは、最新作『クララとお日さま』(二〇二一)では病弱な少女・ジョジーと恵まれない境遇の少年・リック、そして〈AF〉、つまり「人工知能の友だち」として彼らを見守るクララの友情を、ほかならぬ人工知能であるクララの視点で描いている。


『わたしを離さないで』の段階では、人間の代用は人間の〈複製〉でしか賄うことはできなかった。その分、〈複製〉として育てられるヘールシャムの子どもたちにも、ある程度人間的な教育が与えられた。たとえば、ヘールシャムでは音楽や図工など、決して〈複製〉的とは言えないような感性や情操を養う教育が重視されたのである。しかし、『クララとお日さま』におけるクララという存在は、〈友だち〉という人間の機能を代替するために作られた人工知能であり、それ自体が〈複製〉の恐怖にさらされるという展開がある。クララは実は旧式であり、もっと性能の良い最新型のAFも大量に〈複製〉され、商品として売られているのである。『クララとお日さま』を読んでいくと、感情や学習機能、コミュニケーション能力などを持つ〈友だち〉である人工知能に、われわれがこれまで人間的と思い込んできたものを代替される未来が近いことを考えずにはいられなくなる。人間の〈複製〉から、人間的なAIの〈複製〉にまで複製技術が進歩するとき、われわれ〈人間〉という存在はどのように価値付けられればいいのだろうか。答えはまだ出ていない。

「未来」所属のベテラン歌人・山田富士郎はその問題を予感した歌人のひとりである。最新刊である『商品とゆめ』(二〇一七)から二首を引く。

車椅子押しつつのぼる複製のごとき二人の老いたる方が

ロボットの介護に終はる人生は似はうかもしれぬ上野千鶴子に

山田富士郎『商品とゆめ』


 一首目、〈複製のごときふたり〉は夫婦か、親子か、いずれにせよ老老介護という現実を表しているのだろう。老いた人間が老いた人間を介護する。その光景が〈複製〉のように思われる。殺伐とした介護社会の到来が予告される。二首目、介護や福祉、ジェンダーの問題を論じつつ、ときに優生的な思想が常に論争の的となる社会学者・上野千鶴子を歌っている。山田は〈ロボットの介護〉を人間的価値を剥奪する行為と見ているのかもしれない。価値的に生きる最後の手段である介護もまた、〈複製技術〉によって代替される未来が見える。

 他方、もっと若い現役世代においては、先に示した宇野作品が端的に物語るように、自分の存在が〈複製〉的に見られること、「お前の代わりはいくらでもいる」と思われることに対する潜在的な恐怖心がある。そしてそれは、ただ一人の自己、つまり唯一性と複製性の葛藤となって現れる。近年の最若手の作品をこの観点から読み解いて、本稿の結びとしたい。

コピー用紙補充しながらこのままで終わるわけにはいかぬ人生

萩原慎一郎『滑走路』


シャチハタを押し続ければシャチハタのわれの名前の息切れていく

岡方大輔「かりん」二〇二一. 二


生物として吾を見る 子孫なし/久しく性交なし/自我はあり 

小田切拓「かりん」二〇二〇. 八


 萩原作品。与えられた労働を必死でやり抜こうとする姿からは、ただ一人の自己の承認を希求する健気な若者の姿が見え隠れする。しかし、〈コピー機〉という〈複製技術〉がいみじくも象徴するように、いくらでも代替の可能性がある労働であることを否定することは難しい。〈複製技術〉によって価値を剥奪されるという恐怖は、萩原の中というよりもむしろ同じような境遇の読者の中に強く根付くのかもしれない。岡方作品では、〈シャチハタ〉によって〈複製〉されるわれは次第に弱っていくように見える。アイデンティティとしての〈われの名前〉が価値を失っていくという恐怖がある。小田切作品は、〈複製技術〉とそれに対する恐怖心が、容易に優生思想と結びつくことを示すだろう。代替されない〈吾〉のアイデンティティとして〈自我〉をあげているが、これも人間の唯一の価値とはみなされない未来が来ることは、先述した人工知能の語り手・クララの存在が物語る。


 進歩した技術が人間の〈複製〉を可能にし、あらゆる機能が代替される可能性を示し始めたとき、われわれの唯一性、つまり〈ただ一人の自己〉というアイデンティティは容易に崩壊する。そのような〈複製技術〉時代において、歌人は〈ただ一人の自己〉を拠り所に歌い続けることができるのか、われわれは岐路に立たされていると言えるだろう。

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※「かりん」2024年5月号特集に発表した、「〈複製技術〉時代の短歌2ー身体と顔を詠むとき」は、この文章を大幅に発展させたものです。できれば併せて読んでいただきたいという思いがあり、今回公開に踏み切りました。

※「note」への転載にあたり、初出より一部軽微な加筆・修正を行いました。

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