【レビュー】丸地卓也『フイルム』(角川書店)
「かりん」に入会してからほとんど間近で見てきた丸地卓也さんの作品が、ついに一冊の本になりました。一冊の歌集が出来ていく過程をほぼ生で見てきたとも言えるので、感慨もひとしおです。
改めて歌集として丸地さんの作品を読んでみると、まず思い至るのはその生真面目さ。僕はかつて、かりんの若手特集の中で丸地さんの歌を、生真面目であるがゆえに「処方箋的」であると書きました。これは丸地さんの生業である医療や福祉の分野を踏まえた比喩的な表現ですが、ここでいう「真面目」とは、物事を四角四面に考えてしまうような硬直した価値観ではなく、ひとつひとつ(あるいは、ひとりひとり)の物事に深く向き合い、自分なりに納得したことだけを詠うという、真摯な姿勢を表しています。
もはや「戦前」ではない、という思いを抱えながら、自らを〈長男だから〉と奮い立たせようとする。〈長男〉は自分をある運命に縛りつける呪縛のようであり、そこから逃げないでいることを選ぶだろう。丸地さんの真面目さは、切実であるからこそ、このような社会の理不尽さをいとも簡単に突破してしまうような力強さを持っています。
だからこそ、『フイルム』の歌は常にある物事の「本質」をしっかりとついてくるし、そのために歌がやや一般的な把握に収まってしまうこともあります。長年歌を見ているなかでも、この点が課題であることは変わっていないと思いますが、次はまた新たな展開を見せてくれるでしょう。
歌集の最後半には、亡き弟へ心を寄せる一連が収められています。この構造は、生まれてすぐに命を落とした我が子への挽歌を寄せた石川啄木の『一握の砂』を思い出させますが、啄木がその「死」の瞬間を詠うことで確かに生きた我が子の証を残そうとしたのに対して、丸地さんの弟への挽歌は、ずっと遠くにあるその魂を、そのままの距離で捉えるような印象があります。そこに弟がいないという理不尽を、心のどこかで「納得」してしまう。その冷静さこそが、「私」がいて「弟」がいないという事実に対する最大限の抵抗なのかもしれません。
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