言語をうたうー『異国』vol.2

 ポルトガル語が話されている国々には太陽が良く似合います。リスボン、リオデジャネイロ、サルヴァドールの街並みと海岸の夕陽はあまりにも美しい。(…中略)南米大陸のブラジル、アフリカ大陸のアンゴラやモザンビーク、大西洋、インド洋や太平洋の島々でポルトガル語が話されたり公用語になっているのは、ポルトガルの海外発展の結果です。

 …ポルトガル語が定着したといいましても、世界のポルトガル語圏の人々が同じ発音で同じ語順のポルトガル語を正確に話しているのではありません。(中略)人間の声帯や呼吸法などは民族や個人によって異なるはずです。コンピューターが作り出すような一元化した音をすべての人びとが発声できるはずがありません。

                  浜岡求『はじめてのポルトガル語』

 数字の恐ろしさもさることながら、もっと魅力的な難物が最後にお目見えする。それは略語だ。(…中略)KOPはカンサッリス・オサケ・パンッキという銀行で、ここにはお金を預けてあるから知っているし、SKSがスオマライセン・キルヤッリスーデン・セウラといってフィンランド文学協会であることも、学生はそこで本を割引きで買えるので知っている。しかし(…中略)意味も分からないのにKHTが何やらケスクスカウッパカマリン・ヒュヴァクシマ・ティリンタルカスタヤの略だというのを覚えるにいたっては、もう涙なしには語れない。

                稲垣美晴『フィンランド語は猫の言葉』

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 語学書を集めるのが好きで、たいして勉強するわけでもないのについ買ってしまう。生来が怠け者の僕は、はっきりいって外国語学習には向いてはいない。「ケスクスカウッパカマリン…」を涙ながらに暗記するような根気は僕にはない。ただ、涙ぐましい努力で外国語を身に着けるというまではいかないまでも、語学書を読んだりテレビやラジオの講座を少しかじってみたりして、様々な外国語の世界に触れてみるのが好きなのだ。

 ポルトガル語もフィンランド語も、僕のあこがれの言語のひとつである。ポルトガル語については、『はじめてのポルトガル語』著者の浜岡さんが書いている通り、ポルトガル国内だけではなく南米やアフリカでも話されているという多様性が魅力だ。英語やスペイン語、フランス語の世界的な広がりは有名だけど、ポルトガル語がこんなに多くの地域で話されている言語だということはあまり知られていない。知られていないからこそ、それがすごくかっこいいことのように思えてくる。しかも僕はお隣のスペイン語を学んだことがあるので、ポルトガル語には謎の親近感と、おそらくとっつきやすい言語だろうという信頼感がある。こうしていつか少しだけでもいいから勉強してみたいなあと思い、参考書だけは買ってあるけれど、なかなかそれを開く機会はない。

 一方、フィンランド語へのあこがれは、ひとえに稲垣美晴『フィンランド語は猫の言葉』に対する僕の惜しみない称賛の産物でもある。この本、とにかく面白い。1970年代に当時はほぼ何も知られていないに等しかったフィンランドに単身留学し、フィンランド語と悪戦苦闘しながら充実した毎日を送る学生の姿が、生き生きと描かれている。ここに紹介されているフィンランド語と著者のエピソードを読むだけで、フィンランド語を学んでみたくなることは間違いない。たとえそれが「ケスクスカウッパカマリン…」であったとしても、絶対に面白いだろうという確信が持てるのだ。

 そういうわけで、人一倍語学に対するあこがれが強かった僕は、迷わず外国語(英語)を教える職業についた。ついたのはいいけれど、正直「外国語、イマドキあんまり流行らないなあ」という印象はある。中学生や高校生は教科書の英語を覚えるだけで精一杯で、世の中には英語以外の面白い言語があることに気づいていないようだ。というより、彼らは語学の面白さがどこにあるのかに気づいていない。もっといえば、語学は「面白がる」ものだということに、気づいていないのかもしれない。だとしたら語学教師としてはすごく残念だ。僕らのような人種が語学の何を面白がっているのか、子どもたちに見せてあげなければいけないと思う。

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Shanghaiのまんなかにあるg音をだんだん面倒臭くなつて省けり

<床に臥す>と<蒲団に入る>は違ふことしどろもどろに白人に説く

al Qaedaの綴り覚えてしまひたり黒板に書くことはなけれど

ことさらに語尾のRを響かせるジョージブッシュの息子のジョージ

                    大松達知『スクールナイト』

「コスモス」所属の作者の第二歌集から引いた。大松さんは「英語教師×歌人」の大先輩。収録されている歌もどうしてもそういう目線で見てしまう。発音しないg音、僕は結構好きなんだよなあ。日本語に関する外国人の(AETの先生だろうか)素朴な疑問に答えるのって、自分の英語力ではとても大変で、だけど「しどろもどろに」なりながら答えているその時間はすごく楽しかったりもする。知っていてもしょうがない綴りを覚えてしまうことだってある(たいがいは授業のネタにしようとして、ならなくて忘れてしまう)。R音が響く発音はアメリカ英語の大きな特徴だ。大学の音声学の授業で習ったけれど、実際に耳にすると感動がある。三首目と四首目は2001年の同時多発テロと自分との関わりを歌った一連からの引用だ。自分の想像もできなかったような大変なことが起きているその最中も、言葉に対するある意味無邪気な好奇心が抑えられずにいる。

四月号の例文通りに村の子に<你幾歳了(ニーチースイラ)?>と問へば答える

ホテルの名ゆゑにいくども言ひにけり<虹(ペランギ)>という愛(は)しきマレー語

ユンソナは漢字で書けば尹孫河であるといふネタけふは持つなり

ジブラルタルすなはちジャバル・アル・ターリク<ターリクの山>アラビア語にて

 旅行で少し現地の言葉を使ってみる。例文通りだったとしても、現地の言葉を使うことでささやかな交流が生まれることがすごくうれしい。次はもっと言葉を覚えて来ようという気持ちにもなる。マレーシアでは<虹(ペランギ)>という美しい言葉に出会った。知らない言葉に出会うこと、それを美しいと思えることが、心を豊かにするということなのだと思う。

 三首目と四首目は、言葉による認識のとらえなおしを歌ったものだ。日本で活躍する韓国人タレントが、カタカナの名前、漢字の名前、そして(おそらく)ハングルの名前を使い分けている。そこに生じる微妙な政治的問題は、学校の教室で扱うには繊細過ぎる。ネタにしていいのか、だめなのか、葛藤する姿も浮かび上がってくる。四首目は「ジブラルタル」という地名がアラビア語由来であることに注目する。むろん、イベリア半島とイスラーム王朝の歴史的関係を理解していれば、なぜそこにアラビア語が残っているのかを説明することは容易い。言葉の変遷には歴史や政治が深くかかわってくることを、教師として改めて認識することが重要なのである。

『スクールナイト』のあとがきで大松さんは、「外国語を教えるという日常は、ひとつひとつの単語の音と響きを特に意識させてくれます。それは、それぞれの語彙の根底にある、言語そのものが普遍的に内包する不可思議さを体験することでもあります」と書いている。自分が教えている英語という言語だけではなく、すべての言語に平等に知的探求心を注ぐ。その姿勢が肝要なのだ。まだまだ駆け出しの僕も、そうありたいとずっと願ってきた。

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「言語」への関心は、「文学」への旅をもたらす。僕が卒業した大学の英米文学専攻は、「言語」と「文学」の両輪を非常に大切にした。そこで学ぶことになった僕は、幼いころから漠然とあった「言語」への関心を軸に、「文学」の研究をすることにした。だから、就職してしばらくして、五十子尚夏『The Moon Also Rises』を初めて読んだとき、忘れていた学生時代の言語と文学への熱が少しよみがえってきたような気がした。

誰よりも僕が愛していたらしい ペドロ・ロメロの甘美な夢を

フラニーもゾーイも大人になれなくて夜から剥がれた緑の付箋

空論を机上に描く八月の美(は)しきハーマイオニー・グレンジャー

ヒースクリフと呼べば荒野を抜けていく風がかたちをなくした夜に

「ペドロ・ロメロ」は『日はまた昇る』(ヘミングウェイ)に登場する夢見がちな若き闘牛士。「フラニー」「ゾーイ」は日本では村上春樹訳で有名になった『フラニーとゾーイ』(サリンジャー)の主人公の兄妹。「ハーマイオニー・グレンジャー」は『ハリー・ポッター』シリーズ(J.K.ローリング)でハリーの親友である秀才の女の子。そして「ヒースクリフ」は、『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)の主人公。館の主人の娘であるキャサリンと愛憎入り混じる悲恋を展開する。

こうして名前を挙げただけでも、それぞれの物語が生き生きとよみがえってくる。ここでは触れないが、そうした「物語」が立ち上がってくるというその一点で、これらの歌はみな成功していると思う。みな英語で書かれた文学作品だ。「This is a pen.」のような覇気のない例文なんかではない。その時代を生きた人間たちの苦悩や挫折、喜び、悲しみ、歴史が投影された、生きている文学である。こういうものに触れようとしないで(別に原書でなくてもいいのだ。幸い日本の翻訳研究は進んでいて、いい翻訳がいっぱいある。本来は子ども向け作品のハリー・ポッターならともかく、『嵐が丘』の原書なんて、研究者でもなければ読む必要もないだろう)、検定試験の点数を競い合ったり飾りだけの「コミュニケーション」を追い求めることの、いったいどこが「語学」だといえるのだろうか…。

ーー話がそれてしまった。『異国』について書こうと思っていたのに。

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『異国』には編集発行人の鈴木智子さんのほかに、毎回の大テーマの設定と公募の評を担当する「親」というメンバーがいる。今回「親」になった僕は、迷わず「言語」という題を選んだ。「文学」でもよかったのだけど、それは(個人的には)いつも歌を詠むうえで大切にしていることだったので、これだけ自分と深く関わりがあるのにいざ歌を詠むとなるとしり込みしてしまっていた「言語」のテーマに挑戦したのである。

ウェールズ出身フィリップス先生の話すきれいな英語教室に響く

三月に退職した前任校での風景を、そのまま詠んでみたものだ。いい悪いは別にして、ようやくまた前任校での日々をこういう形で歌にできるようになった。生徒たちには僕が語学を「面白がっている」様子をちゃんと見せることができただろうか。そんなことをふと考える。

愛という言葉の訳を人々はたぶん少しずつ間違えてる(大城紫乃)

本当は「愛」は言葉で説明できるものではない。ひとりひとりに多様な「愛」の形があり、だから「少しずつ間違えてる」ように感じるのだ。そもそも日本語の「あい」という音と、たとえばロシア語の「リュボフィ」という音が同じ「愛」の意味につながれることは偶然の産物でしかない。愛の意味が同じだったら、世界はきっと面白くない。

All Japanese word just one I know is SAYOUNARAだとリクシャーマンは(白川ユウコ)

「サヨウナラ」という言葉だけを知っている「リクシャーマン」、なんかかっこいいなと思う。行きずりの旅での、小さな心の交流。ちょっと舌足らずな発音で「サヨウナラ」と言ってくれたあのリクシャーマンとの一期一会を思う。旅も、旅先の言葉も、一期一会だからこそ輝いている。

大海の西の果てよりルシアンとベレンの墓へひざまづく我(笛地静恵)

トールキンに熱中した青春時代、そんな日々もあったのだろう。年を経て、かつてはあこがれるのみであった文学者の眠る地へ向かう。「我」の世界を広げてくれたファンタジーの大家に思いをはせ、その壮大さにひざまづく。一連全体が、そんな静謐な叙情に満ちている。

フラヴニーナードラジーと繰り返す「駅」という語も分からず目指す(鈴木智子)

ペルシア語だろうか。本当に訳が分からない。言葉の迷宮に放り込まれたような気持ちになる。「フラヴニーナードラジー」と、暗号のように唱えながら、何かを目指してさまよい続けている。語学というのはこういう体験の連続だ。RPGの勇者になったような気さえする。その高揚感が、実は語学の醍醐味だったりする。

塩味の手紙をガラス越しに見る時が止まったトルコ語の恋(深山静)

異国の言語で書かれた古い手紙を、ショーウインドウのガラス越しに見ている。ほんのりトルコの海の潮が香ってくるような気がする。気持ちは一瞬だが、言葉はいつまでも残り続ける。言葉によって僕たちは終わってしまったその恋を追体験することができるのだ。その事実だけで「トルコ語の恋」を愛おしく思っている自分がいる。

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『異国』は僕の中では自分の表現を磨く大事な場所になりつつある。何より「異国」にあこがれを抱いている自分、というアイデンティティと向き合わなければならない。それはとても厳しいことかもしれないが、今の自分に必要なことだと信じて、これからも『異国』と関わっていこうと思う。




  

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