「かりん」2020年5月特集号を読む【番外編】若手座談会風レポート(前半戦)

2020年5月11日、オンライン会議ツールを用いて、「かりん」所属の若手六名(郡司和斗、川島結佳子、貝澤駿一、碧野みちる、丸地卓也、小田切拓)による歌会が行われました。全員が出詠している「かりん」2020年5月号の特集を用いた歌会の中で、この議論をテキストに残して公開したら面白いのではということになり、実行することにしました。(公開場所が僕のnoteというのは他にもっとなかったのかと思わなくはないですが…。)

前後編に分けて更新します。今回は前半、郡司和斗、川島結佳子、貝澤駿一の作品についてです。

(記録係は碧野さんが担当しました。それを貝澤を中心に他のメンバーで加筆・修正し、最終的に貝澤が編集して記事としています)

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※発言者は敬称略(郡司、川島、貝澤、碧野、丸地、小田切)

【郡司和斗:3首目】
  ゆうやみの椅子に座ればねむたいよ生まれたばかりの麒麟のように

丸地:形容詞の使い方に見られる曖昧性が、短歌研究新人賞のころから感じられたが、今回はそれに加えて進化した「線の太さ」がある。個人的には、10首目の「弾圧も冬の思想とおもうとき鈴売りは鈴の音を売りに来る」の歌がことさらに太くてよい。あと、「麒麟」って表記は、想像上のものなのか、実在する首の長い動物なのかで迷ってしまった。
碧野:丸地さんの「弾圧」あたりに同意。10首目「弾圧」の歌の固さや太さは、この連作のスパイスになっている。塚本邦雄の「はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる(『日本人霊歌』)」の歌みたいな無言の圧。あと、2首目「閉店のやさしい音楽が流れて、旅を勧めてくる雑誌を閉じる」の歌の韻律がすごい。破調しても最後まで読ませてしまう力業に才能を感じる。
丸地:ああ、塚本はわかるかもしれない。
貝澤:「やさしい」という形容詞の用い方は単純。新人賞当時と変わらず郡司くんらしさがある。
小田切:前評者同様、新人賞のころに加えての骨の太さを感じる。郡司くんは、大衆に受け入れやすい歌と、実は噛み応えのある歌を使い分けできるのでは。
貝澤:「弾圧」という硬めのテーマと通底する形で、11首目「からあげの下に敷かれた味のないパスタのように眠っています」のように、俗っぽいけど柔らかい歌を出すやり方がいい。それぞれの歌が連作の中で有機的に作用している。
川島:全体的に「眠さ」「終末観」の印象。9首目「趣味はボクシングと言えば少年は「ぶってもいい?」と問いかけてくる」の歌がピリッとして動的で、馬場先生が去年かりん誌に出していた「日曜日ふと来し隣の幼子はわれのハヤシライス凡打といへり(「かりん」2018年6月号)」の歌みたいで面白い。
貝澤:「弾圧」の歌の雰囲気は、ジョージ・オーウェルの『1984』みたい。ボクシングの歌は小坂井大輔さんの「甥っ子に五十メートル何秒と聞かれた喪服ばかりの部屋で(『平和園に帰ろうよ』)」を思い出す。
小田切:連作の後半にゆくにつれてだんだんギアが上がっていく。
碧野:連作構成力がすばらしい。「全て一首で独立すべき」という自分の固定観念を、悪い意味で実感できた。参考になる。



【川島結佳子:10首目】
  夜のアスファルトみたいに光ることあるのだろうかスペースデブリ

郡司:「光る」ことの比喩に引き出されている「夜のアスファルト」は自ら光ることがない。この一見相反する言葉の斡旋によって、「夜」の感触や、宇宙の「ゴミ」の観念が孕む語感が飛躍を持ち、味わい深い。
貝澤:「スペースデブリ」の単語選択が意外。詩情がある。
小田切:「フラットな歌人」という川島さんの宣伝文句があったけれど、そのフラットな歌の重なりのなかに、叙情的な歌を置くことで連作の奥行きが出ている。
貝澤:川島さんは、以前坂井修一さんも言っていたけれど、詩になるかならないかギリギリのところを狙っていると思う。
碧野:料理の歌の一連の、ロールキャベツの作り方の描写で作者の生活感が分かって嬉しかった(1首目:包丁でキャベツを二つに割るときに新雪を踏みしめてゆく音)。ああ、こんなふうに料理するのか、っていう。あと、川島さんは最近この「詩情」を少しずつ小出しにしていて、開拓したのか隠し玉なのかわからないけれど、私はすごく好き。かりんに掲載された「駅前でキスする君の体内にマイクロプラスチックあり私にも(「かりん」2019年1月号)」の歌みたいな。ポエティックな歌。好き。
貝澤:以前は「ヒトスジシマカの唾液」だったのにね。(走り出す私の中を一滴のヒトスジシマカの唾液が巡り(『感傷ストーブ』)
小田切:ああでも「詩情」はわかるかも。今までの川島さんは「自分が見たものの描写歌」が多かったけれど、この連作は「自分にカメラが向いている」感じ。
貝澤:そういう歌い方はスタンダードなものなので、いい意味で自分らしさを失わず、隠してきたこういうテクニックをこれから見せてほしい。
丸地:フラットな川島節はこの連作にもある。
川島:まあとにかく強引に連作にまとめる!これに尽きる(笑)
貝澤:ロールキャベツの連作と思いきや、その形状からスペースデブリが連想されて連作の中でモチーフとして機能している。米川千嘉子さんや梅内美華子さんなど、かりんの諸先輩方の連作の作り方にも近づいてきていると思う。よく考えられている。



【貝澤駿一:7首目】
  三色ボールペンの芯ひとつずつ物乞いの兄弟たちに分け与えたり

川島:「喜ぶ兄弟」と「私」、という対比のストーリーが想像しやすい。作中主体の心情の複雑さが滲んでいる。ぐっとくる。
丸地:「三色ボールペン」という語自体が美しい。その他にも「貝澤的な美」が最初数首に見られる(3首目:密造酒は月のかがやき丸瓶の琥珀がにぶきひかりを放つ)。心情だけではなく、風景にも気を配って詠んでいる。文化をよくも悪くも描き出す、詩的な文体。世界を文学するのは池澤夏樹的、あるいは日置俊次的。
貝澤:池澤夏樹は読んだことはないんだけど、いろんなものに影響は受けていると思う。熱しやすく冷めにくい。
一同:わかる。
貝澤:この連作をつくった表の理由は、谷岡亜紀さんの世界を意識したかったから。旅先を詠う中で、自分がどう変遷したかを詠うべきだと思っている。裏の理由は、旅行詠なら他のメンバーと被らないだろうからっていう(笑)。
碧野:私は川島さんの「貝澤駿一論」の結論部分(「…〈わたし〉が社会を文学作品と重ね合わせる行為によって、本当に貝澤が求める答えは見つかっているのだろうか」)に同意なのだけど、貝澤くんは歌を文学作品に寄せすぎでは?
貝澤:「あるモノ」をモチーフにして自分の創作作品に入れるとき、そもそも自覚的には自分のものにしているから、そのまま重ねているわけではない。引用する行為・その引用文学のモチーフの選択、それ自体が〈われ〉の現れだと考えている。
小田切:貝澤くんには純粋な透明性があるけれど、そう呼ばれている他の若手によくある、「叙情性をむきだしにするやり方」ではない。文学作品を引用することで特段〈われ〉が見えてくるのでは。キャリアを積む中でそのやり方がどうか変わってゆくのか気になる。あと話は逸れますが、貝澤くんの歌に僕が感じる「持つわれと持たざるひと」の構図は、日本近代文学的な流派を意識しているのでは。
碧野:悪く言えば「上から目線」、よく言えば「俯瞰的」。
川島:「上から目線」は短歌をやる上でどうしても出てきてしまうのでは?
丸地:モノを書く時点で、すでにテキストの中に「上から目線=俯瞰目線」が発生している。しょうがないことではある。
小田切:特権階級意識がありながらも、貝澤くんは誤魔化さず、こそこそせず見ていこうとするから、鼻につかない。
貝澤:俯瞰的な部分を解消するべきなのかは、わからない。中上健次じゃないから、社会集団性の中で歌うのはどの歌人でも難しい。
碧野:ごめん、個人的に「上から目線」は千葉聡さんに感じる。
丸地:あの記事も本当なのかね。
郡司:千葉さんは先生の目線オンリーだからじゃないかな。だけど貝澤さんはいろんな目線に立てている。
丸地:千葉さんは無意識に「上から」やっちゃっている感がある。
小田切:自分は特別なんだ、という感覚が若手には根付いている。でも貝澤くんはそのアイデンティティの揺れと向き合う姿勢がある。


ーーー後半へ続きます。

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