【レビュー】川口慈子『Heel』(短歌研究社)

崖っぷちではないけれど下ばかり見ていた過去よモズクを啜る

川口慈子『Heel』

『Heel』の特徴はこの一首に結実していると思います。どの歌も〈崖っぷち〉ではないけれど、どこかうつむきかげんであり、大手を振って上を「見上げて」いるような歌が少ない。「上を向いて歩こう」ではないけれど、いつも何かを深く考えながら(時には「考えすぎ」ながら)、作者は恐ろしく冷静に現実を見つめています。(そして意外と、考えながら何かを「食べて」いる歌が多い。モズクや、きしめん、一人焼肉、カロリーメイトなんかも……。これも、物事を冷静に考えるときに必要なことなのでしょうか)

セクシーな大根の姿真似てみる投資話に聞き耳立てて

平坦な道をピンヒールで転ぶ夢さ したたかに花魁道中

川口慈子『Heel』

〈セクシーな大根〉の歌はよく引かれている歌で、胡散臭い〈投資話〉に対する作者の曰く言い難い感情を、それとなくユーモラスに描いています。〈したたかに花魁道中〉も、とってつけたような言い回しの中に少しの自虐とユーモアを交えていると読むことができる歌です。しかし、これを単なるユーモアだと言い切れない部分があるとぼくは思っています。それは、川口さんの歌がとてもまっすぐで、狙って作ったユーモアではなく、まさにそのまま「私」が〈セクシーな大根〉だと感じたから〈セクシーな大根〉と歌ったのだ、というような潔さがあると思うから。第1歌集で最もよく引かれた歌のひとつも、こんな作品だったことを思い出します。

新宿駅すれ違いざま美しい破裂音にて「ブス」と言われぬ

川口慈子『世界はこの体一つ分』

この率直な歌い方は、たとえば自分の容姿や生き方に自信がないとか、生きづらい現実が重くのしかかってくるとか、そういった次元とはまた別の視点から、川口さんにとっての「現実」を規定しているような印象があります。常に自分は自分でしかないという確信めいたものを感じるのです。そしてその力強さは、第2歌集にもある程度引き継がれていると思います。

介護させるために子供を作るという友の視線が我を捕らえる

川口慈子『Heel』

友は笑い話のつもりで言ったのかもしれないし、冗談のようなことを真面目に語ったのかもしれない。〈我〉もそう深刻にはとらえていないのかもしれないし、〈友〉の言葉に大きなショックを受けたのかもしれない。「現実」によって〈友〉と〈我〉が分断されつつも、〈友の視線〉によってその人とは違う「現実」を生きる〈我〉が形作られていく。こうした他者との関わりの中に「自己」を規定していく歌も印象的な歌集です。

父母の墓石に太陽降り注ぐ一人子われのうつつ眩し

川口慈子『Heel』

一方、歌集の後半では、父や母、祖母といった家族の歌が目立つようになります。家族もまた、「私」を「私」たらしめる存在でありますが、その関係性の中にある程度理想的、あるいは典型的な像を追い求めようとする姿は、第1歌集では見られなかったものかもしれません。

うっかりと見つけた猫の目玉からサモトラケのニケ立ち上がりたり

セクシーな大根の姿真似てみる投資話に聞き耳立てて

大事なもの見失いそうな危うさにロードバイクで切り裂く光

連絡先ひとりも知らぬ高校のクラスTシャツ着て眠りたり

才能というギャンブルにくずおれた家族が回すビーチパラソル

表札のない空き家あり母住みし西新宿の住所辿れば

介護させるために子供を作るという友の視線が我を捕らえる

ふるさとの畑はソーラーパネルへと姿を変えて猫も消えたり

毎日が人生の決断である父と瞬きの日々を過ごしぬ

本棚の後ろからクモ現れてモーツァルトのレクイエム聴く

『Heel』10首選

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