【レビュー】川口慈子『Heel』(短歌研究社)
『Heel』の特徴はこの一首に結実していると思います。どの歌も〈崖っぷち〉ではないけれど、どこかうつむきかげんであり、大手を振って上を「見上げて」いるような歌が少ない。「上を向いて歩こう」ではないけれど、いつも何かを深く考えながら(時には「考えすぎ」ながら)、作者は恐ろしく冷静に現実を見つめています。(そして意外と、考えながら何かを「食べて」いる歌が多い。モズクや、きしめん、一人焼肉、カロリーメイトなんかも……。これも、物事を冷静に考えるときに必要なことなのでしょうか)
〈セクシーな大根〉の歌はよく引かれている歌で、胡散臭い〈投資話〉に対する作者の曰く言い難い感情を、それとなくユーモラスに描いています。〈したたかに花魁道中〉も、とってつけたような言い回しの中に少しの自虐とユーモアを交えていると読むことができる歌です。しかし、これを単なるユーモアだと言い切れない部分があるとぼくは思っています。それは、川口さんの歌がとてもまっすぐで、狙って作ったユーモアではなく、まさにそのまま「私」が〈セクシーな大根〉だと感じたから〈セクシーな大根〉と歌ったのだ、というような潔さがあると思うから。第1歌集で最もよく引かれた歌のひとつも、こんな作品だったことを思い出します。
この率直な歌い方は、たとえば自分の容姿や生き方に自信がないとか、生きづらい現実が重くのしかかってくるとか、そういった次元とはまた別の視点から、川口さんにとっての「現実」を規定しているような印象があります。常に自分は自分でしかないという確信めいたものを感じるのです。そしてその力強さは、第2歌集にもある程度引き継がれていると思います。
友は笑い話のつもりで言ったのかもしれないし、冗談のようなことを真面目に語ったのかもしれない。〈我〉もそう深刻にはとらえていないのかもしれないし、〈友〉の言葉に大きなショックを受けたのかもしれない。「現実」によって〈友〉と〈我〉が分断されつつも、〈友の視線〉によってその人とは違う「現実」を生きる〈我〉が形作られていく。こうした他者との関わりの中に「自己」を規定していく歌も印象的な歌集です。
一方、歌集の後半では、父や母、祖母といった家族の歌が目立つようになります。家族もまた、「私」を「私」たらしめる存在でありますが、その関係性の中にある程度理想的、あるいは典型的な像を追い求めようとする姿は、第1歌集では見られなかったものかもしれません。
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