日本経済新聞「大機小機」欄で考える正確で緻密な論考の必要さ

本日の日本経済新聞の「大機小機」欄では、石橋湛山が執筆した『東洋経済新報』1945年8月25日号の社論「更生日本の門出」が取り上げられ、次のように説明されました[1]。

あの石橋湛山も間違えた。敗戦直後の東洋経済新報の社論「更生日本の門出」はうちひしがれた日本人に勇気を与えたが、その中で原爆を「科学の産物であり、頭脳の産児である」とし、竹やり精神でなく科学精神に徹せよと述べた。しかし、原爆は取り返しのつかない科学の退歩であり、人類の大きな過ちだった。

これは、5月19日(金)に始まる先進国首脳会議において、「核兵器なき世界」を実現するための第一歩を踏み出すことの重要性を訴える中で、戦前から戦後にかけて日本の針路に関して先見的な議論を行ったと考えれる石橋湛山も、原子爆弾への評価を誤っており、実際には科学の進歩ではなく科学の退歩であった、と指摘するものです。

確かに、「更生日本の門出」における原子爆弾の評価の箇所のみを読むなら、「大機小機」欄の指摘にも頷くべき点があるでしょう。

しかし、「更生日本の門出」を通読するなら、上記のような理解が石橋の主張の一部を全体と誤解していることが分かります。

すなわち、石橋は戦後の復興について「単に物質的の意味でない科学精神に徹底せよ。然らば即ち如何なる悪条件の下にも、更生日本の前途は洋々たるものあること必然だ」 指摘し、空襲をはじめとする種々の戦災からの復興という物理的な側面ではなく、国民の意識の根本的な改革こそが真の復興であると主張しています[2]。

ここで石橋が挙げる「科学精神」とは、直接的には日本と連合国、特に米国との差を意味します。

具体的には、日本政府が降伏を決断する重要な契機となった二度の原子爆弾の投下に象徴される科学技術であり、そのような科学技術を生み出した人間の頭脳が「科学精神」です。

それでは、何故石橋は日本の再生のために科学精神が重要となるのでしょうか。

これは、科学精神の粋を集めた原子爆弾が通常兵器を無力化するだけでなく、第一次世界大戦で華々しく登場し、第二次世界大戦でも各国の軍事戦略の中心であった航空機をも陳腐化させ、原子爆弾を搭載した一機の航空機があれば戦争の帰趨を決められるという現実に求められます。換言すれば、「科学精神」は戦争のあり方そのものを変える力を持つのです。

さらに、特に太平洋戦争中の日本が軍備の不足に直面した際、より高度化された科学技術によって事態を打開しようとするのではなく、物資の欠乏を精神力で補おうとする軍当局者の精神主義が敗戦を招いたという反省が「科学精神」の重視に繋がります。

このように戦中から戦後にかけての石橋が合理的精神や「科学主義」を強調するのは、何よりも日米の差を比較し、戦中の劣勢と最終的な敗戦という事実を受け止め、敗戦国は戦勝国に学ぶべきであるという現実的な態度に基づくものでした。

従って、原子爆弾に対する評価は「科学主義」の説明の中で挙げられた事例の一つであって、石橋の議論の主たる論点ではありません。

いわば些事に目を奪われ議論の中心点を見逃すことは、立論全体の妥当性を損なうことになりかねません。

G7広島サミットの持つ重要な意義を的確に指摘する今回の「大機小機」欄の論考だけに、こうした議論の進め方は慎重さの足りない、惜しまれるものです。

自戒を込めて、より正確で緻密な論考の必要さを改めて考えるところです。

[1]ヒロシマ・サミットの地球責任. 日本経済新聞, 2023年5月13日朝刊20面.
[2]石橋湛山, 更生日本の門出. 石橋湛山全集, 第13巻, 東洋経済新報社, 2011年, 4頁。

<Executive Summary>
How Can We Realise a Proper Discussion? (Yusuke Suzumura)

The Nihon Keizai Shimbun runs an article concerning the G7 Summit's discussion of the Nuclear Disarmament starting with Izhibashi Tanzan's assertion. On this occasion, we examine this argument whether it is adequate or not.

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