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日記なんて人生でほとんど書いたことのない僕が見つけた「自分を受け入れること」の大切さについて

こんにちは。

この記事は、日記なんて人生でほとんど書いたことのない僕が、一ヶ月間、日記を続けたら「自己肯定感」よりも「自己受容」が大切だと気づいた話です。

「日記をつけ始めたいと思っている人」「なかなか日記が続かない人」に、面白く読んでいただけるかもしれません。

本音を話すことが少なくなった、とある男性の記録です。


なんで日記を書きたいと思ったか

きっかけは僕の仕事の内容によるものでした。僕の仕事は、誰かが書いてくれた原稿を、自分の言葉のように声に出して読む仕事をしています。

長年、この仕事をしているけど「自分の言葉」を声に出して届けたことはありません。「自分の言葉ってなんだろう?」 原稿を読み上げたとき、ふと、そう思ったのです。

それが、小説や脚本ではなく、なぜ日記だったのか。
それは、最近気づいたのですが、自分の本音を日々、封殺していることに気づいたからです。

講談師の神田伯山のラジオ「問わず語りの神田伯山」が好きでよく聞いています。「ラジオの友は、真の友」を合言葉にしているラジオを聞いていたある日のエピソードで、こんなキーワードが流れてきました。

今の時代、本音は有料。
何か不用意な発言をしてしまえば、訴訟があったりする時代。
日常のコミュニケーションが希薄になるのは、当たり前。

ドキリとしました。
確かに、当たり障りのない会話しかしていないかもしれない。

また、自分の中に浮かんでくる考えや思いも「誤解される伝え方」になっていないかな。「多方面に尊重できているのかな」など、いろいろなことを考えてしまい、そもそも、自分の思いを伝えることを諦めてしまうことが多くなっていることに気づいたのです。

自分の本音に、ちゃんと向き合えているんだろうか。
自分の日々の暮らしを、自分が理解できているのだろうか。

少し話は変わりますが、僕の部屋には、少し大きめの本棚があって、ジャンル問わず、本が並んでいます。積読本を含め、本棚を眺めることで、自分の心の整理をしています。しかし、並んでいる本を見て気づいたのですが、そのほとんどが、日記から派生した本ばかりだったのです。

日記文学や短歌はもちろんなのですが、ビジネス本をとってみても、著者の経験してきた記録が記されている。日記という体裁はとっていないものの、ビジネス本も「日記」と呼べると思ったのです。

「何をこの世に残しておけるのか」
若い時は考えなかったのですが、年齢を重ねてくると、なんでもいいから残しておきたいという思いが強くなってきました。

本棚に並んでいる本のように、一冊に思いを閉じ込め、残しておくことができたら、なんて素敵なんだろう。僕が、日記を書き始めるに充分な理由だと思ったのです。

なにを書いたらいいかわからない

日記を書き始めたのですが、さまざまな障害にぶちあたります。
現在、迷走しているものもありますが、いくつか記していきます。

もしみなさんが「さあ、日記を書いてください」と言われたとき、どんなことを書きますか?

僕は一日目、その日あった印象的な出来事や、誰かに話したい内容を書いていました。下記は、初日に書いた日記の抜粋です。

最近、お菓子作りにハマっている。
酔っ払って帰ってきた次の日の朝、空腹感を埋めるために、冷蔵庫をあけるとそこには「まだクッキーとはよべないもの」が入っていた。
どうやら昨日、帰ってきてから、米粉とココアパウダー混ぜ、棒状のクッキー生地をつくっていたようだ。
あぁ、そうだ。酔っ払ったとき、つくったお菓子を褒められたから、嬉しくなってもう一度つくろうと思ったのだ。
食べようと思い、20分オーブンで焼く。
その間、歯医者に出かけるために、歯をみがいたり、身支度を整える。
できたてはアツアツ。焼き上がったクッキーの出来栄えに、食欲が刺激される。
ただ、このクッキーを食べてしまうと、もう一度、歯をみがかないといけなくなる。朝からクッキーを焼いたのに食べないなんて、ステラおばさんもびっくりだろうなと思いながら、空腹感を抱き玄関のドアを開けた。

これは、たまたま面白いことがあったので、書くことにしました。
でも、毎日、こんな出来事が起きるわけではありません。もし、毎日、面白い出来事が起こるなら、それはそれで、素晴らしい才能だと思います。

何も、特別なことは書かなくていいのです。形式も自由。
その日、食べたもの、天気、気温、その日のファッション、見たテレビ、映画など、海の上を旅する航海日誌のように、見たものをそのまま記録していくことで、書きたいという気持ちがでてくると思います。

時間が経てば経つほど、今日書いた日記が、面白く感じることでしょう。

誰に向けて書いているのか

日記を書き始めてからすぐこんな短歌を詠んでしまいました。

日記にも ほんとのことを書けてない 死後までつれてく 過剰な自意識

日記をつけはじめてわかるのですが、自分の自意識が邪魔をしてきます。

もし、私が死んだ時に、誰かにこの日記が読まれたりしたら、失望されるかもしれない。ないしは、すごく稚拙な内容で、笑いものにされるかもしれない。そんな想像力から、日記にすら本当のことを書けていない自分がいました。

自分の本音と向き合おうとしたにも関わらず、自意識過剰になるあまり、全然、筆がすすまなかったのです。

一ヶ月経ったいまでも、まだ向き合えている実感はないのですが、あることを意識することで、だいぶマシになりました。

それは「相手に見せる日記」「特定の人に見せる日記」「誰にも見せない日記」に分けることです。

書き始めてわかるのですが、僕の日記は、とにかく「重い」です。そんな重さを受け止めてくれる人なんていないだろうと思い、コミカルに、読んだら楽しくなるように、事実や思いを捻じ曲げて書いていました。

つまり僕は、格好をつけたのです。

そんなメッキは数日でぼろぼろ崩れ出し、三日経ったら、何も言葉がでてこなくなりました。

自分の思っていることは、紛れもなく自分が思っていることですから、それを無理やり捻じ曲げ、よそゆきの言葉でつづることを、本当に望んでいるのでしょうか?

まずは、自分が感じたことをそのまま書くローデータをメモることにしました。そして、一日の終わりに、各日記に割り振ることにしました。

日記がなかなか続かない

ひとりで日記を書いていると続けるのが、難しいことがあります。
ワークショップに通ったりしたら、ちょっとした強制力も生まれるかもしれません。

「日記を書かなきゃいけない!」という強制力ではなく、
「自分の日記を待っている人がいる」という思いが、どんなに眠たくても、その日の夜に日記を書く原動力を与えてくれています。

自分ひとりで書く場合、「自分が待っている」という意識を持つことも可能だと思いますが、もし、友達や、日記を書きたいもの同士で、クローズドに閲覧できるサイトなどで書き合うなど、工夫することも可能だと思います。

内容に関しては、一行でもいいと思います。
大事なのは、書けなかった日記を、取り戻さないことだと思っています。
だから、書けなかった日も、「書けなかった」でいいと思います。一行書けたら二行かけるかもしれませんしね。

もし書けなかった日の日記を、後日、取り戻そうと思った場合、それは美化されて別物になっているように思うからです。

だから、その日のうちに書いてしまったほうがいいと思います。
(数日間メモをして、まとめて日記を書くのも良いと思います。)

日記を続けて気づいた「自己受容」の大切さ

日記を書くことで、自己肯定感が上がると言われたことがあります。今回、日記に取り組む主目的ではないものの、副産物として少し期待をしていました。

しかし、日記を書き始めてみましたが、僕の自己肯定感はまったく上がりません。むしろ、下がる一方なのです。

これは、僕特有の悩みなのかもしれないですが、日記を続けて一番悩んだのは「自分が感じたことや、思ったことが、果たして世の中的に、正しいのか?」という疑問。

なぜ、こんなことを思ってしまったのかというと、日記につづられていく自分の本音に、不安を感じてしまい、「こんなことを感じてしまう自分のことが嫌い」になったり「自分はおかしいのではないか?」など、自己否定がはじまってしまったのです。

たとえば、ある日の日記に「家にいるのに帰りたいと思ってしまう」と書いたことがありました。

これは、パッとみると変な感情ですよね。
既に帰宅しているのに、帰りたいだなんて。

もしかしたらこの感情は、思ってはいけない感情だったのかもしれない。
口に出してはいけないことだったのかもしれない。そんな不安な思いに縛られてはじめました。

日記に取り組みはじめて、数週間が経ったころでした。きっと自分からでてきた気持ちを受け止めきれなかったのかもしれません。

「自分が感じたことは、正しいのか?」という悩みを、例えを出しながら、いろいろな人に相談をしました。しかし、相談される側も、困っているように見えました。

今になって思うのですが「私が思っていることは正しいですか?」と主観的な質問に、答えることは難しいですよね。

結果、相談した皆さんからは「そのどれもが正解である」という、あたたかい言葉をいただきました。そう感じてしまうことも、正解。その後で、出した答えも正解。「でも、正解も不正解もないんだと思うんだけどね」って。

それらの出来事で感じたことは、日記で得られるのは「自己肯定感」ではなく、まず「自己受容」なのではないかと思ったのです。

自分が思ったことや感じた日々のことを、そのまま日記に書いていく。
偽らず書いていくその記録は、紛れもなく、自分が感じた真実のこと。

それを毎日、文字を吐き出し、受け止めていくことが、重要だと思ったのです。

日々の生活のいいところだけを切り抜き、記録し、それを振り返り、自分を肯定することが、本当に自分がなりたかったものなのかと思ったのです。

いろいろ悩んだり、考えを巡らせたりする人のほうが、魅力的だ。

まずは、自分が感じたことを、そのまま書いて、そのまま受け止める。
それらのことが、本当の意味で「生活をする」ということなのかと、今は思っています。

さいごに

一ヶ月日記を続けてみて、発見したこと、気づいたこと、こうなんじゃないかなと思っていることを記してみました。

僕は、過去思考気味なのですが、目の前で起こっていることに集中ができず、過ぎ去ってしまったことに思いを馳せてしまいがちです。

日記を書く時、それらのことはすべて過去のことになります。

どうか、日記に書くことを探すあまり、目の前のことを疎かにしないようにしてください。案外、本当に大切なものは、今、目の前にあることかもしれません。

おしまい。

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