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育成年代は〝いいサッカー〟を目指さなければならない


皆さんは「いいサッカー」と聞けば
どんなサッカーを思い浮かべるだろうか。

全盛期のバルセロナのようにパスを繋いで
美しく攻撃するサッカーや、
当時、一世を風靡した野洲高校の
ドリブルとパスを駆使するサッカーか。



僕が思う「いいサッカー」の定義は、
〝選手が判断をしてプレーしているサッカー〟
である。

逆に選手が判断をしていないサッカーは
いいサッカーとは言えない。

つまり前述した、全盛期のバルセロナのように
ショートパスを繋ぎながら攻めるということは、
認知と判断の能力が必要不可欠であり、
いいサッカーと言える。

相手がいないところを見つけて攻める
相手が来たらプレーをキャンセルする
相手によってプレーを選ぶ・変える

など、自分で判断して選ばないと
機能しないサッカーだ。

ではロングボールはいいサッカーとは言えないか。

そこにも判断があるかないかで大きく変わる。
「判断をした上で」の選択なら
もちろん素晴らしいプレーだ。

認知と判断が選手の根底にあるかないか、
またそれを組織の中で常に最適解を探り
プレーしようとしているか。

ここが、チームとしていいサッカーなのか、
指導者がどのような考えや哲学を持っているかを
見極める一つの判断基準になる。



いいサッカーを語る上では
プロと育成年代を分けて考えなければならない。

なぜならプロとは「勝利」が
何よりの「価値」になり、
勝つためならなんでもやるべきだからだ。

今、J1で最も勢いのある町田ゼルビアが
相手陣地深くの全てのタッチラインから
ロングスローを投げることもその理由だ。

勝つために徹底的にやるのである。
もはやそこに判断というものは存在せず、
「チームの決まりごと」として徹底的にやる。

勝つことでたくさんの
人々を幸せにできるのがプロの仕事であるが、
果たして育成年代でもそれをやるべきなのか。

「判断のない簡単な方法」を
選び続けるサッカーが、育成年代にどのくらい
価値を与えるのかを真剣に考えていきたい。

もちろん育成年代でも勝利を目指す中で、
チームや選手が成長していくことは間違いない。

ただそれが〝どんな方法〟で
勝利を目指しているのか、
僕は様々なチームをよく観察している。

例えば育成年代における
判断のないプレーの例を
挙げさせていただくと3つある。

・とにかくロングボール
・とにかくドリブル
・とにかくちょんドン(フットサル)

例えばロングボールも、試合を通して
相手チーム最終ラインの背後にスペースが
あり続けているのなら
ロングボールを蹴り続けるわけで、
フットサルのちょんドンにおいても、
その後にトリックプレーに派生させるための
ちょんドンであればそれも布石になる。

一見同じことを繰り返す方法の
サッカーに見えるチームであっても
そこに「判断や戦略」が絡んでいるのなら
育成年代においてはいいサッカーだと言える。

選手がどんなノルマをクリアしながら
成長していくかが、育成年代において
いいサッカーを目指す重要な鍵となる。

しかし、日々現場で戦っている指導者にとって
そのバランスを保つことは非常に難しい。

勝ちを目指せばサッカーが疎かになり、
いいサッカーを目指せば勝ちが疎かになりやすい。

いくらそのバランスを取っても結局負けた時には
いいサッカーの価値をなかなか理解してもらえず
「勝ったものが強い」なんて短絡的な言葉に
一蹴されて終わる。


ここでオシムの言葉を紹介する。

〝勝つことと育てることは、
矛盾すると同時に矛盾しない。
その矛盾の間でコーチは生活している。〟

イビチャ・オシム


この言葉を聞いた時、刺さるものがあった。
勝利と育成という矛盾しているようで矛盾しない
2つを本気で追い求めるチームの難しさを
オシムの言葉で理解することができた。

自分達のチームでは少なからず
それくらい難しいことにチャレンジしていると、
逆に少し安心して自信を持てたくらいだ。

「難しいことにチャレンジしなくてもいいから
勝ってくれよ!」

そんなことを選手や保護者は思うかもしれない。

しかし、よく考えてほしい。

ここは育成年代であり、
もしも判断のないサッカーを1試合通して
繰り返し行った結果〝負けた〟場合、
選手達には何が残るのだろうか。


何も残らない。



そして育成年代というのはどこかで必ず負ける。

日本一を本気で目指したとしても
なれる可能性は何%なのか。よく考えたい。

ほとんどのチームはいずれ負ける。
その時に選手達にどんなものを残せたか、
指導者がデザインするサッカーによって
そこが大きく変わってくる。


過去に現場でもテレビでも見たことはあるが、
1試合を通してロングボール、
ひたすらロングボール、
ボールを持ったらロングボール。
タッチラインを割ったら
ひたすらゴール前へロングスロー。

確かにそのようなチームはフィジカル的に
特化した選手も多く、チームとしても強い。

でも、そのやり方で
どこまで勝ち続けられるのかは疑問である。

小学生や中学生がそのやり方で
仮に日本一になったとしても、
それは欧州や南米の屈強な同世代にも
通用するするのかは見てみたい。

つまり、育成年代において
判断のないサッカーは勝ち続けたとしても
本当に価値があるのかは疑問であり、
仮に負けてしまった時に
選手には何も残らないサッカーなのである。

ノーリスクノーリターンのサッカーとも言える。

僕は少なからず
そのようなサッカーには魅力を感じない。

指導者という立場になって
チームの舵を切ることができる自分なら
そのような航海のやり方は当然選ばない。


なぜならサッカーは

勝ち方(やり方)を選べるスポーツ

だから。


ギャンブルのように
勝つか負けるかの2択ではなく、
どんなサッカーをして勝つか、
またはどのようにチャレンジして負けるかは
選ぶことができる。

その大きな設計図を作ることができるのは
まさに我々指導者であり、
どんなサッカーで選手に経験を積ませて
勝利を目指すべきかは指導者の
大きな任務の1つだろう。

話を戻すがこれは育成年代の話である。


最後に究極の持論を1つ言いたい。

育成年代でいいサッカーをしているチームを
見極める際は、トーナメント戦の試合
見に行くことをおすすめする。

トーナメント戦というのは、
負けたら終わりという一発勝負の中で
選手のメンタル的にもリスクを取りにくい。

その中でノー判断でロングボールを
放りまくっているのか。

またはボールを持って(持とうとして)
判断しながら攻撃しているのか。

結論、
トーナメント戦でパスを繋いで
勝つチームこそ最強で最高のチーム

だと、僕は考える。


毎年お正月の全国高校サッカー選手権では、
空をボールが飛び交う。

試合開始の笛と同時に、
試合終了間際のような戦いが試合終了まで続く。

わかる、わかるよ。
勝たなければいけないそのプレッシャーを。

学校を背負って戦うんだから、目先の勝利で
生徒募集や学校の印象にも関わる。

だけどサッカーには夢やロマン、
美しさ、選手の判断や決断があることを
忘れてはいけない。

そこを忘れたら、育成年代でも
ゴールを奪うために手段を選ばない
モラルの低いチームが増えていって
サッカーの魅力が薄れていくだろう。

しかし、僕がここでこんなことを嘆いても
大きくは変わらない。

だから自分だけでも、そこの価値を
見失わないようにしないといけない。


あえて自分にプレッシャーを掛けるけど、
どんなサッカーをチームに根付かせるかは
指導者の腕に掛かっている。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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