支援されるべき存在とみなされることには納得できない。映画「怒り」を観て感じたこと
先日、「怒り」という映画を見てきました。
衝撃的なシーン、理不尽なシーンが多くあり、観終わった時には どこか気持ちが重たくなるような映画でした。評価はいろいろあるようです。
映画は、素性のしれない3人の謎の男を中心に展開されます。
一年前に起きた殺人事件の逃亡犯が、その3人と似ていることから周囲の人が疑い、信じる気持ちとの間で葛藤するという展開になっています。
3人の謎の男は、無職だったり、親がいなく施設で育っていたり、同性愛者だったりと現代社会ではマイノリティーで、周りから偏見の目で見られがちな存在です。
周囲の人も風俗嬢だったり、沖縄の基地問題に反対していたりと社会的に弱さや不当な思いを抱えて生きている人がたくさん出てきます。
殺人事件の犯人は、日雇い現場に行く途中、手違いで道に迷い、疲れて見知らぬ通りがかりの民家の玄関先に座り込んで休んでしまいます。
心配した民家の住人がお茶を差し出したその瞬間に犯人の中で何かが起こり、その人を殺してしまうのです。
「疲れたでしょう、お茶をどうぞ」と善意を施されたのに、 なぜ逆キレして殺人を犯してしまったのか。
これは私の勝手な解釈なのでわかりませんが、その心の動きの中に、 この映画で訴えているメッセージの一つがあったのではないかと思います。
私がこのシーンから想起したのは、 人を「支援する」ことが持つ暴力性です。
誰かが誰かを支援する瞬間、そこに格差が生まれます。
支援されるという受け身な立場に身を置かれるということは、ある種の自立を奪われ、人の助けなしには存在できないというレッテルを貼られるということでもあります。
そのことは、時に大きくプライドを損なわせてしまいます。
たとえば医療の世界で、高齢者がトイレに行くのに助けが必要となる場合に尊厳が傷つくことがあると聞きますが、それもその一つの例でしょう。
ましてや、その格差が社会的に理不尽で納得のいかない理由で背負わされたとしたら、その人が支援されたと感じるときに持つ違和感も大きいのではないでしょうか。
たとえば、この映画でも出てくる同性愛者。
自分にとっては自然なことが社会的にはおかしいという目で見られるということ。
もしかしたら、恋愛はもちろん、仕事などでも不遇な扱いを受けるかもしれません。
そういう時、おそらく不当な差別を受ける同性愛者は支援してもらいたいとは思わないのではないでしょうか。偏見がおかしいとは思っているでしょうが、かわいそうで支援されるべき存在とみなされることには納得できないだろうからです。
先生やコンサルタント、ボランティア、人を支援するという行為は、しばしば支援する側の視点で相手を扱い、結果的に支援側のエゴになってしまう危険性を持っていると思います。
先生は正解を教える、コンサルタントは正しい答えを知っている。
クライアントはそれを受け取るという関係性の格差を放置して支援を行ってしまう時、おそらくその仕事は本当の価値に繋がりにくいと思います。
人を支援する前に、支援する側はこの格差を埋めるということをしなければいけません。
このあたりを体系的にまとめた名著に、エドガー・H・シャインの
「人を助けるとはどういうことか」があります。
人の育成、組織開発をする人の間ではよく知られた本で、この映画を見たときにふと思い出しました。次回少し紹介出来たらと思います。
また来月もよろしくお願いいたします!
2016/9/26 VOL75 sakaguchi yuto
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