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空をうつす目

あなたの目は驚くほど綺麗だった。星空をうつしたような、雲ひとつない夜空のような、そんな目をしたあなたのことを、もう随分と忘れられないでいる。


あなたに出会ったのは、去年の春先のこと。深夜まで開いているカフェに入ったときだった。夜になれば通常のメニューに加えてアルコールが飲めるようになるからと、私が孤独に任せて足を踏み入れた店。時間とともに酔いが回り、ぼんやりとテーブルの木目を眺めていた時にあなたが話しかけてきたんだっけ。

「もう少しで閉まるみたいですよ」
心地よく響く声が鼓膜を揺らして、私は目を上げた。チノパンとニット、スプリングコートを見にまとった人。少し長い前髪の隙間から覗く目が、今までにないほど綺麗に見えた。襟足の髪が少しはねている。
「立てますか」と訊かれて、私はゆっくり立ち上がろうとした。足元がふらついて、座っていた1人がけのソファに逆戻りしそうになったとき、手首を掴まれて踏みとどまる。温かい手だった。私が冷え性なだけかもしれないけれど。
「すみません、ありがとうございます」と告げる自分の声がどこか他人事のように聞こえた。
会計を済ませてカフェを後にする。後ろから足音が近づいてきて、振り返るとあなたがいた。
「忘れ物」と言われて手元を見ると、来る時に着ていたカーディガン。すっかり忘れていた。礼を伝えて受け取ったそれはかすかに温かかった。

帰る方向が同じだと言うので、駅までの道を2人で歩いた。名前、職業、好きな食べ物、最近よく聴く音楽。次から次へと話題は尽きず、どこか心を弾ませている自分がいた。このまま話していたいと、駅までの道があと少し長ければと思う自分がいた。
それでも時間は過ぎてしまう。駅のロータリーに差し掛かって、あなたは足を止めた。聞くと駅からほど近いアパートに住んでいるのだと言う。私の住むところとは違う方向。
もう会わないかもしれないことが切なかったけれど、繋ぎ止める方法が分からないまま私は手を振った。
「カーディガン、ありがとうございました」と言うとあなたは目尻に笑い皺を寄せて笑った。「気をつけて」と言って。
次に振り返った時、あなたはもう視界の中にはいなかった。


その次にあなたと会ったのは、春が終わりに差し掛かった頃だった。最初に会ったカフェで、今度は真昼に。強くなってきた日差しを避けるように俯いて歩いていたから、正面から歩いてくるあなたに気づかなかったのだ。
「あ」と呟いた声が重なって、私たちは笑った。あなたの笑い声は変わっていなくて、笑い皺もそのままなことに少し安堵する。
互いに、オレンジジュースとコーヒーだけで数時間話し込んだ。最初に会った時、あなたは仕事に行き詰まっていたのだということ。慌ただしい日々が虚ろに思えて、気分転換に入ったカフェで私と出会ったこと。会計を終えてから私の忘れ物に気づいて、店を出て走ったということ。相変わらずの心地よい声であなたは話してくれた。
「あの時はほんと…すみません」と謝ると、あなたはまた笑った。よく笑う人だ、と思った。
私もぽつぽつと話した。年が明けてすぐ、一緒に住んでいた人と別れたこと。一人暮らしに戻ると生活が味気ないこと。それも仕事が忙しくなるにつれて日常になっていったこと。久々の休日を1人で過ごすことが虚しくて、偶然見つけた店であなたに出会ったこと。
「出会うきっかけが似ているって、なんだか面白いですね」というあなたの言葉が記憶に残っている。

あの日と同じ道を、あの日と同じように2人で歩いた。ふと横を見ると、やっぱりあなたの襟足がはねている。可笑しくなって笑うと、あなたは不思議そうな顔をした。
「前も髪、はねてたから」
ほら、ここ、と指すと、彼は苦笑した。「伸びてきたらすぐはねるんだ」と。崩れた口調に気づいたのは多分、私だけだ。
時折触れる指先と跳ねる心臓に見て見ぬふりをして、私はあの日と同じように彼の背中を見送った。


最近、彼に会う機会がめっきり減った。減った、というよりなくなった。夏はとうの昔に去っていき、秋が来ると同時に冬になった。会わなくなって数ヶ月が過ぎ、再会を心待ちにする気持ちも少しずつ薄れていった。

その日は快晴で、夜になっても雲一つない空が広がっていた。初めて出会ったカフェで、あの日と同じようにグラスを傾けながら、真新しいノートを開いていた。雑貨店で一目惚れした、夜空の色を写し取ったような色をした表紙にため息をつく。紺とも黒ともつかない色をめくって、最初のページに日付を書き込んだ。
「日記?」という声が頭上から降ってきて、勢いよく顔を上げる。重たげなコートを羽織っているあなたがいて、声にならなかった息が喉から溢れた。

「なかなか会えなかったから、もう会えないのかと思った」
笑いながら言う彼の、その柔らかく崩れた口調。無意識なのか意図したものか判らず、心臓が大きく脈打った、気がした。
会ったのは2回、そのうち腰を落ち着けて話したのは1回だけ。それなのに惹き寄せられてしまうのはどうしてなのだろうか。不思議な人だと改めて思う。
「ここ、いい?」と訊かれて頷く。正面に座ったあなたから逃げるように、また手元のノートに目を落とした。「新しいノート?」と彼はまた訊く。声が喉に張りついてしまったように何も話せなくて、また頷いた。
「日記、書こうと思って」と絞り出した声はひどく掠れていて、どうしてこう上手く喋れないんだろうと内心身悶えする。
「日記か」
いいじゃん、と心地良い声が形を作った。しばらく会っていなくても、人の耳はちゃんと覚えているらしい。その音に浸っていたいと思った。

注文したコーヒーに口をつけて、あなたはぽつりぽつりと話し始めた。
「前に会ってしばらくしてから、仕事が立て込むようになって。なかなかこっちに来ることもなかったんだ。やっと落ち着いたから今日こそ、って思ってさ」
「…そっか」
「そう。いるわけないかって半分くらい諦めてたんだけど、君がいたから本当に驚いた。いつの間に呼んだんだろうって」
はは、と笑う声も変わらない。ぎゅっと胸が締めつけられるように苦しくなって、ああ、気づきたくなかったのに。

「あ、そうだ。言わないといけないことがあった」
どくん、と脈が速くなった。何だろう、何だろう、何だろう、聞きたいと聞きたくないが交互に頭をよぎった。
「本当、大して関わりもない人に言うのもどうかと思ったんだけど…いいか。実はもうすぐ引越すことになった」
「…え?」
「忙しくしている間に、まあ引き抜きっていう形で所属が変わってさ。移行期間として猶予はもらってるけど、それも残り少なくなってる。ここ数日は、引越しの準備が終わったら君を探してこの辺りを歩いていた」
「どうして」
「会いたかったから。こうやって出会ったのも何かの縁で、何も言わずにさよならするなんて薄情だと思って」

ずるい。会いたかった、なんて。何も言わずに離れてくれた方が、いっそのこと引きずらないで済んだのかもしれない。
「…そっか、うん、ありがとう」
「いやいや、お礼を言うのはこっちの方。いきなり会った人間とここまで話してくれてありがとう」



私は最後まで心を惹かれたまま、あなたの背を見送った。結局、彼について知ったことはほとんどなかった。一年にも満たない時間の中で、ほんの少し同じ空気を分かち合っただけ。
月日が流れて、強く惹かれる思いも徐々に消えていった。心の中であなたの占める割合が小さくなっていき、思い出だけが淡い色で残った。
あなたの目が、鮮明に記憶に焼きついている。






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