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受付嬢京子の日常⑪逆算から見える世界

「洋さん、おはようございます」

警備室の前で原田京子は、同じ施設で働く吉田洋子を見つけて、声をかけた。

「おはようございます」

今日も肌が綺麗だなぁと、京子は思う。自分の方が5歳年下なのに、なんだろう、この差は。昨日は吉田も京子も遅番だった。施設が閉まるのが22時。片付けなどをして、退勤は22時半ごろ。遅番の後の早番は、睡眠時間を削るしかない。早番の次の日が遅番なら良いと思うのに、月に数回、遅番明けの早番がある。

早番の日、インフォメーションは9時出勤と決まっている。京子は8時45分に駅に着く電車に乗る。遅番明けの日は、目が重たい。インフォメーションに向かう通路は、パンの香りの後、醤油の匂いが漂う。飲食店の店舗のスタッフが最初に出勤して、仕込みをしているからだ。インフォメーションの近くになると、吉田が働く店舗のエリアになる。洋服や雑貨を取り扱う店が立ち並ぶため、出勤が遅いことが多く、9時半ごろに電気がつき始める。その日常が、普通だと京子は思っていた。吉田が働くようになって、その店だけは、9時ごろ電気がつくことが多くなった。それは、吉田の遅番明けでも変わらない。

「洋さん、前から聞いてみたかったんですけど」

吉田が京子を見た。

「なんで洋さん出勤してくるの早いんですか?」

ん?と吉田が首を傾げる。

「他の人は15分前出勤ですよね?同じ会社の人。それに、他の店舗の人も9時半より早い時間に見たことないですけど」

「店舗の状態をチェックしたいし、他のお店のキャンペーンがあったら、チェックもしたい。あとは、早く帰るから店舗が開く前に済ませて起きたい仕事がある日もあります」

吉田が何か考えている顔で答えた。

「他のお店のキャンペーンですか?」

吉田が早く来るのと、なんの関係があるのだろう。京子は不思議に思う。インフォメーションで受付嬢として働く自分ならまだしも、業務に全く関係ないように思う。

「あ、原田さん、着替え急がないといけないんじゃぁ?」

京子はインフォメーションの裏で着替えてからタイムカードを押す。時計を見ると8:55とデジタル時計が表示されていた。うわっと慌てた京子の顔を見て、吉田が微笑む。

「また後で」

京子は慌ててインフォメーションの裏に飛び込んだ。

「最近、あの人と仲良くないですか?」

同じく早番の片岡聖奈が準備をしながら京子に言う。目線の先が、店舗の前で通行人に挨拶をしている吉田だ。聖奈は店舗で働くスタッフをよく馬鹿にしている。京子は物販の店舗にも派遣されたことがある。物を売る仕事ができるなら、それだけで凄いのだと思う。初めからこれを買う、何か食べる、と決めている状態とはわけが違う。入ってきた人が何かを選ぶとは限らないのだ。聖奈は仕事に対してやる気がないように見える。それなのに、仕事をしている人を馬鹿にするのが理解できない。京子は、聖奈が商品を売るしか能がない、と言った時の会話を思い出して、嫌な気分になる。吉田と話すようになったからだろうか、腹が立ってくる。あえて気づかないふりをして京子はファイルを手に持った。

「事務所行ってきます」

京子は事務所に向かいながら、吉田が他の店舗のキャンペーンを知りたい、と言った理由を考えていた。吉田の前を通る。いつものように挨拶をする。

「どうかしましたか」

吉田が心配そうな顔をする。聞いてしまいたい、と言う気持ちが顔に出ていたのかもしれない、と京子は思った。

「他の店舗のキャンペーンを知りたい、の意味を考えてました」

なぜだろうか。京子はあえて店舗スタッフとも、同じインフォメーションで働く同僚とも、会話を少なくしている。会話が成立していればそれでいい。プライベートでも仕事でも、一歩踏み込んで質問をしたくないし、されたくない。それが一番もめ事を回避する方法のはずだと確信している。なのに、吉田には聞きたくなる。吉田なら、もめない気がするからだろうか。

「あぁ、あれですね」

吉田が苦笑いをする。そして、簡単ですよ、という。

「お客様の再来店率を上げるためです」

吉田がにっこりと笑った。吉田の店に来る顧客の際来店率を上げるために、京子が働くエキモの魅力を最大限に話すという。そうすれば、少なくとも、わざわざこの駅まで出てくる理由が吉田の店だけではなくなる。お目当ての店が2つ3つと増えるほど、駅までで出てくる交通費や手間が分散されて感じるはずだ、と。

「特に飲食店は大事です。胃袋を掴まないと、お客様の生活圏内が変わってしまった時に思い出してもらえなくなっちゃいますから」

吉田が言うには、働く場所の近く、いつも行く場所の近く、住んでいる場所の近く、という「生活圏内」で目的のものを探す人が大半らしい。働く場所も、住んで居る場所も転勤や引っ越しで変わってしまうことがある。お店側がコントロールできるとすれば「いつも行く場所」に設定してもらう努力だけだ、と。だから、美味しいものや、キャンペーンをお見送りの時にさらっと足す。話を振られた時にも対応すると、共通の話題になる、と。

京子は自分の行きつけのネイルサロンが自宅の近くなことを思い出す。美容室は、通っていた短大の近くだ。担当者さんがいるので、そこに行っている。でもたまにどうしても億劫だと感じる日最近多くなってきた。電車に乗って1時間もかかる場所だからだ。この話をすると、吉田が「そう、それ。その感じです」と微笑んだ。

吉田から離れて事務所に行く京子は、スッキリ晴れた気分だ。そうか、そう言うことか。吉田が来て業績が上がった理由の一つを知った気がする、と京子は舞台裏を見たような気持ちになる。

「原田さん、満面の笑みだね」

通路の前から警備員が歩いてきた。高田登だ。

「お疲れ様です」

「最近、吉田さんと仲良いよね。知ってた?あの人3人の子持ちだよ。見えないよねぇ」

高田のいつもの不正確な噂話だ。京子はそれは違う、と言いかけて、やめた。吉田のプライベートな話をするのは、違う気がする。それに…自分だけが知っていたい気がする、と京子は高田に微笑んだ。

「そうですね」

事務所に行くファイルを見せながら、急ぐようなジェスチャーをすると、高田は右手を上げて答えた。





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