【短編小説】コスパの爪痕

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 十年前、俺は『牧村柾まきむらまさきコスパ自殺事件』の報道を依存症病棟のテレビでぼんやり眺めていた。
 アルコールで仕事も家族も失って、どん底を見た時期だ。

 俳優の牧村もまた酒に飲まれた。
 死の直前は誰とも会いたがらず、遺言は、投稿時間を指定できるSNSの機能を使って発信されたそうだ。


 コスパの良い孤独を求め続けて、ようやく答えが出ました。
 ファンのみんな、後追いはしないでくれよ。
 せっかくの孤独が台無しになっちゃうから。


 心配したマネージャーが牧村の自宅に駆け付けたとき、牧村は首を吊ってこと切れていたという。

 今日の取材の相手は、その元マネージャーの東詩織あずましおりだ。
 うだつの上がらないノンフィクション作家に成り下がって以来、後にも先にもないような大仕事だった。

 俺自身、アル中ネタをインターネットで発信している。
 退院後、三日で再飲酒してからどうでもよくなってしまったのだ。
 今回の仕事も、アル中ネタの発信による知名度、それに締め切りだけは守ってきた実績が買われて回ってきたようなものだ。

 今日ばかりはさすがに酒を飲むわけにいかない。
 取材日は精神安定剤を一日の上限量の二倍飲むのが常だった。

 しかし、この手の震えだけはごまかせない。

 なので、毎回録音による取材が可能かどうかを打診する。
 断られたら震える手でノートパソコンのキーボードを打つしかない。
 手書きをすると、ミミズが這ったような、自分でも解読できないようなひどい字になってしまうからだ。

 もっとも、相手方は多少なりともこちらのことを知っているので大概同意を得られる。
 東も同意してくれた。

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 取材場所のカフェまではタクシーを使った。
 バスや電車を乗り継ぐだけの体力がもう俺にはない。
 酒に飲まれてからすっかり筋肉が落ちてしまった。

 まさか自分がこんなに落ちぶれるとは、上場企業の新人社員だったころは想像もしていなかった。

 七千円ほど運賃がかかったが、仕事の大きさに比べれば安いものだ。

 ゆとりを持って到着したのでまだ時間がある。
 先に入って、予約席でゆっくり段取りしておくか。

 そう思ってカフェに入った途端、女性客が席に座ったまま、うずくまったり背筋を正したりを繰り返している場面に遭遇した。
 呼吸も荒い。
 そばには店員がいたが、どうすればいいのか分からない様子だ。「

 ほどなくして、女性は店員に告げた。
「すみません、もう大丈夫です。薬が効いてきましたので」

 雑にカットされたセミロングの黒髪が少し額のあたりにへばりついている。
 もともと色白なのが一目でわかったが、それを通り越して顔が蒼白くなっていた。
 固太りのわりに虚弱そうな雰囲気を身にまとっている。

 なおも心配する店員に、女性は丁重な言葉づかいで謝って、もう大丈夫です、と再び伝えた。

 彼女が座っているのは、今日の取材の予約席だった。

「失礼いたします、わたくし安藤佳樹あんどうよしきと申しますが、東詩織さんでしょうか?」

 なるべく穏やかな口調を心がけて声をかけた。

「あ、はい、初めまして、東と申します。本日はどうぞよろしく……あれ、名刺どこかな」
「ゆっくりで大丈夫ですよ。それよりお具合は大丈夫ですか?」
 東は「はい」とだけ答えた。

 俺はレギュラーコーヒー、東はデキャンタコーヒーを頼んだ。
 カフェに来てまでカフェインの入っていないコーヒーもどきを頼むのか、と少し不思議に思ったが、すぐに事情が呑み込めた。

 机の上には見覚えのある薬の外包が置きっぱなしになっていた。
 精神安定剤だ。
 パニック障害、とは限らないが、パニック発作を起こすなんらかの疾患にかかっているらしかった。

「東さん、もし安定剤が足りなくなっても大丈夫ですからね」
「え?」

 東が飲んだ薬とまったく同じものを、少し震え始めた手でテーブルに置いて見せた。

 彼女は一瞬きょとんとしてから困ったような笑いを見せた。
 元芸能人のマネージャーには似つかわしくない、気弱な笑みだった。
 化粧の厚ぼったい感じもあって、野暮ったいという形容詞がぴったりだ。

 パニック発作のためにあまり外出していないのだろうか。
 ひとしきり準備を整え、取材を始めた。

「それでは、後々のことを考えて重要なことからお聞きします」
「恐れ入ります」
「牧村氏は、なぜ自殺するほどの孤独を求めていたのでしょうか?」

 俺が言い終わらないうちに、東は、冷水をかぶったときのようにヒュッと短く息を吸った。

「大丈夫ですか? お辛いようでしたら、続きはメール取材でも構いませんよ」
「ありがとうございます。でも、ずっと溜め込んできたものを吐き出してしまいたいんです。あの一件には、まだ整理がついていないこともありますので」

 わかりました、と伝えてから、

「先ほどの質問にお答えいただくまで、本当にゆっくりで構いませんよ。どうせ私のスケジュールはガラガラに空いていますから」

 東は苦笑いして、俺も冗談めかしてにっこりしてみせた。
 相手の緊張が少し解けたのが見て取れた。

 ほどなくして、東は口を話し始めた。

「まず、あらかじめお伝えしておきます。私はPTSDなんです。牧村の自殺現場の第一発見者ですので。あ、PTSDってご存じですか?」
「ええ、存じております」

 そういうことか。
 確か、和訳すると『心的外傷後ストレス障害』だったはずだ。
 正確な定義はうろ覚えだが、悲惨で強烈な体験をした者が、フラッシュバックや様々な発作、症状に苦しめられる疾患、といったところだったと思う。

 首吊り自殺の現場、そして遺体の状態は凄惨そのものだと聞く。
 後遺症をわずらうのも無理はないだろう。

「ええと、牧村が『孤独』を求めていた理由についてでしたね。ちょっと紙にまとめさせてください」
 東はバッグからメモ帳とペンを取り出した。

「心療内科にかかるとき役立つんです。入れておいてよかった」
 そういって、いくつか単語を書き出す。

 途中、何度も「ええと、ええと」とうなりながら、字を消したり矢印を書いたりして苦戦していた。

 数分が経ち、東は比較的しっかりした口調で話し始めた。

「いまからお話しすることは、牧村のご遺族と私しか知らなかったことです。生前、くれぐれも内密に頼む、と何度も念を押されましたので。ただ、いまでも年に何名かの方々が後追い自殺をしています。すべてお話するべきだと思うんです。ご遺族からも同意を得ました」

 はい、と軽い相槌を打って続きを促す。

「牧村はCOPDだったんです。なんだかアルファベットばかりでてきちゃいますけど。要するに、肺気腫を始めとした呼吸器疾患だと思ってください」

 COPDについては俺もはっきり知っていた。『慢性閉塞性肺疾患』の略称で、おもな症状はおおむね東のいった通りだ。

「COPDの症状が進めば進むほど、俳優としてもタレントとしても活動できなくなります。それに、見つかったときにはもうだいぶ進行していたんです。階段を登っただけでものすごく息を切らしていました。初めはよほどアルコールで体が弱っているんだと思っていたんですが」

 メモ帳に書き込みをしつつ、必死に話そうとする。

「ええと、交番に駆け込んだんです」
「交番?」

 牧村を発見した時のことだろうか?

「あ、すみません、ちょっと頭が混乱しちゃって。とにかく、私が牧村を殺したようなものなんです。そう、私が……」

 また東の混乱が始まった。
 素人目にもPTSDのつらい症状が出ているのがわかった。

 今日の取材は中止しよう。
 戸惑いきっている東に、できるだけ落ち着いた口調で声をかけた。

「いったん休憩しましょうか。必要でしたらお薬を飲んでも構いませんよ」

 すみません、と断って東は薬をバッグから出した。

 そのとき、ちょうど店内のBGMが切り替わった。
 何ともいえず気まずい沈黙が漂う。

 少し落ち着かせてから取材の中止を告げよう。

 そう思った直後、突然、東は肩で息をするほどの過呼吸を起こしはじめた。
 顔はふたたび蒼白になって、いまにも叫び声を挙げそうな形相をしていた。

 なんの発作かは分からないが、とても取材を進められる状態ではなかった。

「東さん、救急車を呼んでもらいましょう。まずは薬を飲んで……」

 そのとき、ふと気づいた。

 このBGM。

 牧村がヴォーカルを務めた曲だ。
 
 確か、なにかのバラエティ番組の企画をきっかけにリリースされ、一時期かなり流行ったので俺でも知っていた。

 東はほうほうのていで母親にスマホでメッセージを入れた。
 ほどなく母親が駆け付け、救急車に同乗することになった。

 搬送先の病院が決まるまでの間、とうとう東は金切り声を挙げ始めた。

 その時初めて、牧村柾という男に一抹の軽蔑を覚えた。

 なにがコスパのいい孤独だ。
 お前の身勝手が、あの人の人生をぶち壊したんだぞ。
 それに、何人の人間が後追いしたと思っているんだ。

 そんな怒りに駆られた。

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 一週間ほど経ち、容態が安定した東からメールが届いた。


 この度はわたくしの落ち度のためにご迷惑ををかけいたしまして、大変申し訳ございませんでした。

 後日、ご質問をお受けする用意はできております。

 牧村の『孤独』につきまして、改めてお話いたします。

 牧村は根っからの役者気質です。
 ですが、ご存じの通り、タレント性が光ってしまい、仕事の大半がバラエティになってしまいました。

 当初、大型新人俳優としてデビューしただけに、なおさら悔しかったと思います。

 その後、人気が低迷してから、取り巻きは去り、お酒の飲み方がおかしくなり始めました。
 お酒はもとから好きでしたが、連続飲酒が始まったのはあの頃です。


 ご存じの通り、アルコール依存症と診断されてから入退院を繰り返して、精神が荒んでいました。

 ですが、あの人はもともと強い人間でした。
 周りにもそれを公言していました。

 だからこそ、わたくしはあの人の再起のために、あえて突き放してしまいました。

 気の済むまでお酒を飲めばいい。
 あなたの役者根性はその程度なんだから、と。

 孤独に苛まれたと思います。
 その間にもCOPDは進行していく。
 再起の見込みもないし、COPDはゆっくり肺を蝕んで、遅かれ早かれ呼吸不全で死に至る。

 牧村の自殺現場に遭遇したとき、警察に通報せず近所の交番に駆け込みました。
 取材をお受けしたときに少しお話ししましたね。
 錯乱していたのでよく覚えていませんが、私が人を殺してしまったんです、とわめいていた記憶がぼんやりとあります。

 そして、わたくしは、彼が孤独を求めて自死したとはおもいません。
 むしろ孤独に耐えきれなかったんだと思います。

 あの遺言は、ファンの皆さんの後追いを本当に心配した、苦肉の策の『演出』だったのではないかと、いまは考えています。

 お酒に飲まれさえしなければ、強くて優しい人でしたから。……


 メールはあと十行ほど書かれていたが、今日はもう読む気になれなかった。
 どのみち経理作業を済ませなければいけないし、返信は明日にしようと割り切った。

 ふと、依存症病棟の勉強会でならったことを思い出した。

 アルコール依存症は緩慢な自殺です。

 いまならその意味がよく分かる。
 俺自身、体中が悲鳴を上げていて、苦痛を少しでも紛らすために酒を求めているのだ。

 冷蔵庫を開け、しばらく突っ立ってチューハイの缶を眺めた。

 別に、俺はあいつのファンでもなんでもないんだがな。

 牧村と違って、強くも優しくもない俺は、それほどためらわず冷えた缶を手に取った。

(了)