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穂村弘『シンジケート[新装版]』の発売によせて

歌人である穂村弘さんのデビュー歌集『シンジケート』が、新たな装いで生まれ変わることになった。

ずっと気になってはいたものの、手に入れる機会がなかった一冊だ。告知を見てすぐに予約した。

穂村さん(この記事では、敬意を込めてそう呼ばせていただく)は、大学生活に馴染めず、だだっ広いキャンパスで身も心も迷子になっていた私を救ってくれた人だ。

今回は、穂村さんがくれたものの話をしたいと思う。

◆◇◆

大学生活は、自由だ。

必須科目はあるものの、それ以外の授業や空き時間、サークル・部活や放課後の過ごし方は、全て自由だとされる。

それまで、親や先生の言うことに従ってきた私は、突如やってきた自由に大いに戸惑っていた。

友達を作るのが得意ではなく、大人数でにぎやかに過ごすよりも一人の時間が好きというのも災いしたと思う。サークルに参加してみるものの、同級生達はすんなりと先輩方と仲良くなるのに比べ、私はどんな顔をしていいかわからないままだった。圧倒的に一人暮らしが多く、数少ない自宅生だった私は、夜遅くに集まっているクラスメイトが羨ましかった。テスト期間になれば、同級生達は友人同士集まって勉強したり、先輩から受け継いだ過去問を回し読みしていたが、私は一人図書館にこもって、テキストを読むしかなかった。

憧れていたキャンパスライフとのギャップに、私はだんだんと追い詰められていった。


必要なテキストを買いに学部の書籍部に立ち寄った時、私はとあるエッセイを見つけた。

総合大学だったので学内には学部ごとに書籍部があり、ラインナップは様々だった。私の学部の書籍部では授業で指定されるテキストや辞書の他、一般の文庫本が充実していたのが特徴だった。余談だが、伊坂幸太郎さんの小説を手に取ったのもこの頃で、書籍部は図書館の次によく行く場所だった。

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険しい表情をした男性が、回転寿司を眺めている。隣に並んでいた同じ作者の本から察するに、どうやらこの男性が作者の「穂村弘」さんのようだった。

ぱらぱらとページをめくり、目次を見てみる。「豚年の年賀状」「ジャムガリン」「人生の経験値」「恐怖のゼッケン」……なにやら気になるタイトルが並んでいる。私は買う予定だったテキストと共に、そのエッセイをレジに持っていた。


早速読み始める。それぞれのエッセイは3ページ程度で、すらすら読める。

いや、読みやすいのはそれだけではなかった。「大丈夫かなこの人……」と心配になるようなことが、たくさん書いてあるのだ。

独身、39歳、ひとりっこ、親と同居の総務課長代理。雪道で転びそうになった彼女の手を放してしまい、夜中にベッドの中で菓子パンやチョコレートバーをむさぼり食う。飲み会は苦手だし、一人暮らしも転職も料理も洗濯も海外旅行も未経験。チューリップと薔薇の区別もつかない。「ここに行けば、一人分の場所が確かにあって、私を待ってくれてるんだ、と思って安心する」から指定席が好き。穂村さんとは、そんな人だ。

思わず、著者プロフィールを確認してしまう。1962年生まれ。ちょうど私より30歳上だ。これらを執筆しているのは39歳頃だというから、40代を目前にして、こんなにも世界に標準を合わせるのが苦手な人もいるのかと驚いた。

しかしこの本の魔力は、「そんなこと、あるわけないよ」と笑い飛ばせないところにある。

飲み会で、最初に座った席を動くことができない。 待ち合わせ場所に早く着きすぎて、手持ち無沙汰でうろうろしてしまう。自分の延長線上にあるようなエピソードもちらほらあって、「そんなに怖がらなくても、大丈夫ですよ穂村さん」と「うう、わかるわかる」が3:1くらいでやってくる。面白いだけではない、不思議な一冊だった。

このエッセイを読んでいるうちにだんだんと、大学生活に馴染めない私でも大丈夫なような気がしてきた。40になって世界音痴な人もいるんだから、無理しなくていいんだ、と思えるようになった。失礼な見方かもしれないが、苦手なことに囲まれて、よたよた生きている穂村さんが、私にとっては大切な道しるべとなったのだ。

それからの私は、「キャラクターを作る」ことで徐々に居場所を作れるようになっていった。最もその結果、「相手の期待する反応を返す」ことしかできなくなって、社会人6年目にして壊れてしまったのだけど、まぁそれはそれで。

その後も少しずつ買い集め、本棚に穂村さんの書籍が並ぶようになっていた。本業は歌人をされているので、歌集もたくさん出されているのだが、私に詩歌の素養がないせいか、親しみやすいエッセイの方が好きだった。その後、就職を機に実家を出た時も、穂村さんの本は全部持って引っ越してきた。

◆◇◆

新刊の発売を記念して、神保町の書店でトークイベント&サイン会が開かれることを知ったのは、就職して3年が経つ頃だった。

神保町なら会社からも近いし、その頃には自分の裁量で早く帰れるようにもなっていたので、告知を見てすぐに予約した。

それまで、サイン会というものに参加したことがなかった。握手会のような、「好きな人に会える」イベントにも行ったことがない。予約してからの約3週間をそわそわと過ごし、当日は、会社に着て行っても浮かない、一番綺麗な服を選んだ。

イベントは、書店の上階で行われた。教室のような空間だった。

穂村さんと、もう一人の女性作家さんを招いてのイベントだったので、参加者は50名ほどだったろうか。両方のファンが集っていた。

受付で、短冊のような白い紙を渡された。サイン会に参加を希望される方は、ここに名前を書いておいてください、とのことだ。私の名字は、漢字を間違われやすい。取引相手に名前を間違われるのは慣れっこだが、憧れの人に正しく書いてもらえないのは悲しすぎる。一緒に渡された油性ペンで、大きくはっきりと書いた。


やがて司会のアナウンスがあり、壇上に穂村さんが現れた。

予想していたよりも背が高い。しかし威圧感はなく、むしろ柔らかい雰囲気をまとっていた。話し方はというと、こちらはイメージ通りのゆったりとした口調。穂村さんの周りだけ時間の概念が無いかのようで、プログラムの進行に問題はないかと心配してしまうほどだった。

お相手の作家さんは、恥ずかしながら存じ上げない方だったが、自然と共に暮らす生き方を実践されているとのこと。なかなか体験できないお話をされていて、興味深かった。そして穂村さんはそんな話に対して、大きくリアクションを取ることはしないものの、じっと耳を傾けて、そして自分なりに咀嚼したであろう感想を話されるのが印象的だった。

そうこうしているうちにトークイベントはあっという間に終わり、いよいよサイン会の時間となった。穂村さんともう一人の作家さん、それぞれに列が形成される。

先頭の様子を窺い見ると、どうやらサインだけでなく何らかのメッセージを書いてくれているようだった。その間1、2分ほど、お話できる時間がある。

私は名前を書いた短冊とサインを入れてもらう本をしっかり握りながら、何を話すかを必死に考えた。

(初めてのサイン会で……普通すぎる。大学の時に出会って救われて、ってのはいきなり重すぎるか。トークが面白かったってのは上から目線だし、穂村さんがオススメしてた喫茶店に行ってみた話もしたいし……)

などと考えているうちに、私の順番が回ってきた。穂村さんの隣に立つスタッフさんに、短冊と本を渡す。面白いぐらいに手が震えていたし、心臓はずっとバクバクしていた。

長机をはさんで憧れの人を目前にし、私の口から出てきたのは、

「眼鏡、似合いますね」

だった。

なんで、よりにもよって。スタッフさんの目が笑っている。いきなり見た目の話なんて、にわかちゃんなのかしら。そう思われている気がして、一気に顔が熱くなった。

確かに眼鏡が印象的だなとは思っていた。そしてそれを見て、『世界音痴』に収録されていた「嘘眼鏡」を思い出していたのだ。顔がしまらないという理由の他に、「女性はみんな男の眼鏡が好きだと信じている」から伊達眼鏡をかけている、という話だった。


二の句が継げない私を前に、穂村さんは鷹揚な口調でこう言った。

「そうでしょう、えへへ」

そして、最近新調したというその眼鏡について語ってくれた。正直その時の私は、顔と頭が熱くてどんな話をしてくれたのかは覚えていない。でも、「あぁ、本で読んでいた穂村さんだ」とほっとするのを感じた。

それからは、つっかえつっかえではあるが、お話することができた。大学の頃に読んで、とても救われたこと。以前お話されていた、素敵な喫茶店に行ってみたこと。サイン会は初めてだったが、来てよかったこと。

たどたどしく話す私に、うんうんと頷きながら、「ありがとう」と出来上がったサイン本と共に手を差し出してくださった。その大きな手をしっかり握り返しながら、ありていだけど今日は手を洗わないぞ、と思った。

ふわふわした足取りで帰路につく。サインしてもらったページを開くとそこには、正しく書かれた名前と共に「指さしてごらん 何でも教えるよ」とあった。

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後から調べたのだが、これは「指さしてごらん、なんでも教えるよ、それは冷ぞう庫つめたい箱」という一首の一節だった。

他の人のサインを知らないので、みんな同じなのか、ランダムで書かれているのかはわからない。しかし、本に残された「指さしてごらん 何でも教えるよ」というフレーズは、迷った私を導いてくれる、大切な宝物になった。

◆◇◆

穂村さんは今でも精力的に活動されていて、各所での短歌の評論や絵本の翻訳、ラジオ出演などその活動は多岐にわたる。

私はその全てを追うことはできていないけれど、今でも穂村さんの本たちは、本棚の一番眺めがいいところに飾ってある。

こうして活動の一端に触れるごとに、あの頃進むべき方向を見失っていた私が、よろよろと歩き出せたことを思い出すのだ。

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