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投げ銭でちょっといい珈琲を飲んだ話

今年に入って文章をコンスタントに書くことが出来ず、なかなかにグズグズした心持ちになっていたんだけど、そんななかでも僕の文章にお金を払ってくれる人がいて、あまりこういうことを大声で言うのはいやらしい気もするがとても救われている。noteの機能でお礼のメッセージを送ることができるのだけど何も返さずにいるのは済みません。そういうお礼をもっとカジュアルに言うことができればいいんだが結局書き続けることでしか応えることはできないと思っていて、口下手なのはどうかお許しください。今日も今日とて「俺は絶対に書いてやるんだ」とひとり呟きながら白いディスプレイをしばらく眺めた後「家庭で出来るオニオンフライの作り方」の動画をいつの間にか何本も見る羽目になっている僕ですが、動物園の動物を観察するようなつもりでお待ちいただければ幸いです。

なんでこんなことを急に言い出したかというと、たまたま「美味しいコーヒーでも飲んでください」と貰ったサポートで美味しいコーヒーを飲んできたのでそのことについて書きたくなったからだ。正確に言うと美味しいコーヒーを飲んでからもうだいぶ日数は過ぎ、その後「ルックバックの恐怖」というとても恥ずかしい文章を書いた。

「ルックバック的恐怖」については上記の文章を読んでもらえれば幸いだ。「ルックバック的恐怖」は未だに僕の脳裏にこびりついている。それでも「俺は絶対に書いてやるんだ」と大声を出して恐怖を遠ざけて何かを書いて、書いて、書いて、決然と恐怖に立ち向かうことは出来なくとも、少なくとも何かを書きたいと思っている自分を呪いたくはない。だからコーヒーを飲まなければならないし、コーヒーは言うまでもなく苦くなければならない。そういうものだ。

とはいっても僕はコーヒーの違いが分かる男ではない。適当なブレンド豆を買って適当に淹れて飲む毎朝のコーヒーがいまいち旨いのかどうなのかわからない。強いて言えば「一貫」している気がする。この「一貫」が自分でも何のことなのかよく分からないが、上着に袖が二つある感じと言えばいいのか。3本では多い気がする。何しろ腕は2本しかないのだから。

近くの喫茶店に行ってコーヒーを注文する。普段ブレンドしか飲まないのでたまにはストレートを頼んでみる。リントンミトラというコーヒーを試しに注文していたのだが味の違いは意外なほど歴然だった。「一貫」のレベルが違う。まるで北朝鮮の軍事パレードのように足並みがそろっている。一口飲んだ時のコクが口の中に広がり爽やかな酸味が鼻腔を通り抜けていく。ここには何一つちぐはぐなものがない。軍隊のグースステップ。「美味しい」に対してとても一貫している。

話は変わるが、知人に「ルックバック的恐怖」っていったい何なんだと聞かれた。僕はたまたま将棋の竜王戦の挑戦者決定戦の第一戦を見たばかりだったのでその話をした。竜王戦の挑戦者決定戦では藤井2冠と永瀬王座が対局している。藤井2冠は言わずと知れた中学生でプロになった天才棋士で、棋界の最年少記録を次から次へと更新している。現在対局は1戦目が終わったところで、たまたまそれを見ていた。永瀬王座ももちろんタイトルホルダーであり現在の将棋界の4強と称されるうちの一人である。とはいえ藤井2冠の近年の活躍ぶりから見ると1強状態と言っても過言ではない。

対局は意外な形で幕をあげた。永瀬王座が振り飛車を指したのである。現在の将棋はコンピュータが評価値という形で局面ごとの形勢判断を出す。振り飛車はそれまでずっと主流な戦型の一つではあったのだが、コンピュータが振り飛車を評価しないせいもあってかあまり見なくなってしまった。さらに藤井2冠の対振り飛車の勝率がものすごく高く、対藤井戦で振り飛車を採用する棋士が少ないのでどうしても藤井2冠を中心に報じられる将棋界で振り飛車はとても珍しい戦型になった(ただ一時期よりは増加傾向にはあるらしい)。永瀬王座からして、もともとは振り飛車を大得意にしていた棋士であるが、近年は居飛車が圧倒的に強い。

永瀬王座は隠し玉のように飛車を振り、玉を穴熊でガチガチに囲った。解説を聞いていると穴熊というのは千日手になることが多い囲いなのだという。守りの力が強いので膠着状態に陥りやすいということなのだろうか。千日手というのは盤面に同一の局面が4回現れることであり、なった場合指し直しになるのでとても疲弊するらしい。解説の棋士が「永瀬王座は千日手の指し直しを厭わない」と話をしていた。要するに「綺麗に勝つ」のではなく「泥を啜ってでも勝つ」タイプの棋士なのだという。あだ名は「軍曹」だというのだからなおのことその人柄が察せられる。

対局も終盤になり、じりじりと永瀬王座は劣勢に追い込まれていった。藤井2冠の指す将棋は評価値が一度傾くともう反対に振れることが少ない、「藤井曲線」などと呼ばれるが、藤井2冠は一度有利をとるとほとんど逆転を許さない。終盤の難局での強さが異常なのである。もう普通の棋士なら投了してもおかしくない場面で解説の若手棋士が「永瀬さんは最後まで紛れを狙うと思いますよ」と確信めいた言葉を放ったのが印象的だった。「将棋に才能はいらない」という永瀬王座の言葉が紹介されるとともに、解説の棋士は「永瀬さんは一日14時間くらい将棋の勉強をしていると思う」と語っていた。その言葉の通りに永瀬王座は素人目にも決着が明らかになるまで粘りの手を差し続け、投了した。

途中から何の話をしているのかわからなくなってしまったが「ルックバック的恐怖」についての話だ。ここから先は完全に僕の妄想に過ぎないんだが、対局に敗れた永瀬王座が何を思っていたのかずっと考えていた。ここ一番に持ってきたとっておきの作戦、180手以上となった終盤での異様なまでの粘り、そしてそれら全てを叩き潰してしまった10代の天才棋士。僕はなんとなく永瀬王座が「そうか。14時間ではなく16時間だったか」と呟くところを想像した。この想像に恐怖しない人間を僕は信用しない。

リントンミトラ、という珈琲はとても美味しかったのだがせっかく色々な豆があるのだし次に来たときは違う豆を頼んだ。レテフォホという東ティモールで取れる豆だ。ただ、口に入れた途端にとてもチグハグなものを感じるのだ。服に袖が4つも5つもある感じがする。軍隊のグースステップとは全く違う雑踏を歩くいくつもの脚。味を構成する一つ一つの要素が「一貫」しておらずあるところでは蜂起し、あるところでは安らかな眠りに誘うような味だ。僕は少し戸惑った。だってこれは少し高い珈琲だから。

あくる日に僕はリントンミトラを頼んだ。うん。「一貫」している。安心したような心持ちがあったのだが何故だか先日飲んだ「レテフォホ」の味をもう一度確認したくなった。口に入れると、やはりチグハグなものが口いっぱいに広がっていった。和室なのにフローリングが敷いてある感じ。お日様がいっぱいにあふれているのに部屋干しをしている感じ。くだらないことが次から次へと脳内に浮かんでは消えていくのだがそこで稲妻に打たれるような発見があった。

これがもしかして「苦い」ってことなのか?

僕は味覚のスペシャリストでも何でもないのでそれが確かなのかはわからない。普段から家で飲むブレンドを「苦さ」の基準にしていたのだが、家で飲むブレンドなどほとんど苦くなかったのだ。含むといつまでも口の中に残り続けるチグハグさを何度も確かめながら、ああ自分はこの味が好きなのだな、と認識した。それ以来レテフォホとかブラジルの豆ばかり飲んでいる。

そうそう、「苦い」を味わいながら少しだけわかったことがある。僕は幼い頃から0か100かの考え方が癖になっていたんだな、と。例えば高校時代のテストはだいたい学年で一番点数が高いか、低いかのどちらかだった。数学はいつも満点だったけど、国語は悲惨だった。自分の得意なことに異様なこだわり。そして同時に苦手なものに対する徹底的な苦手意識。僕には全教科70点キープのような価値観が育たなかった。それでも別に何かのスペシャリストになれればそれはそれでよかったのかもしれないが、人生そううまくはいかない。

そう言うことが影響してなのか「生活」がとても苦手だった。「生活」はまさに全教科で70点の平均をとるみたいなものの集大成で、僕にはとても難しかった。パチンコに行って20万勝つことで部屋にたまっていくクレジットカードと奨学金の催促状が煙のように跡形もなくなるような気がしていた。ある日目が覚めたらパチンコも煙草も辞めて、朝からジョギングをしてその後机に向かい執筆を始める、みたいなことが半日続いてその日のうちにパチンコに行った。

今ならわかるけど、生活なんて0点でも100点でもありはしない。だいたい30点か40点だ。僕はそのことに気付くのが遅すぎて、「完璧な生活」に憧れるあまりその重みを想像するだけで一歩も足が前に進んでいないことが沢山あった。いまならわかるけど、30点なら40点に、40点なら50点に、僕が意識して出来ることなんてせいぜいそれくらいで、それ以外方法なんて無い。それはとても痛ましいことだけど。一発逆転を狙うのは自由だが、一発逆転は血の滲むような努力の先にしかない、天に向かって口を開けていたら手に入るものではない。僕が永瀬王座やルックバックに恐怖するのはそのことを知ってしまうのが怖いからなんだろう。いや、今でも心のどこかで宝くじが当たって「完璧な人生」が手に入るような気はしている。いや、多分手に入るんじゃないかな。そんなことを考えながら今日もレテフォホを飲んでいる。苦い。




もしよかったらもう一つ読んで行ってください。