美しい日本語を操るアーティストたち
日本語は美しい。
そう思いませんか。
漢字とひらがなとカタカナと。
その言葉の紡ぎ方は、無数に存在します。
類義語も多く、その状況に合う言葉を細かく選ぶことができます。
例えば、朝の太陽の光を表す言葉だけでも「旭光・曙光・暁光」などがあります。
昼間の太陽なら「昼光・白光」、夕方になると「夕陽・晩陽・斜陽」。
さらに細かい描写を求め、夕方の太陽の中でも沈む様子を表したければ「落日・日没・落陽」。
私たちにはこれだけの選択肢があるのです。
そんな美しく繊細な日本語を美しく繊細な感性の持ち主が操ったとき、凡人である私たちは「ああ、私たちが生きている世界にはこんな側面もあったのだ」と気づかされるのです。
今回は、そんな日本語を操る者たちが作る、“歌詞”に焦点を当ててみようと思います。
『空と君のあいだに』
知らない人はいないであろう、中島みゆきの代表曲のひとつです。
タイトルのこの言葉は、サビで登場します。
「空と君のあいだに」あるもの。
それは、雨でした。
立っている“君”、そこに降り注ぐ冷たい雨。
人によって細かい描写に差はあれど、簡単に情景が浮かぶ表現に感じます。
そんな風に、すんなりと飲み込んでしまったこの文章を改めて吟味してみました。
そして、その凄さに気づいた瞬間、私の心臓は高鳴りました。
だって中島みゆきは、空と君の「あいだ」、その「空間」を切り取っていたんですから。
どういうことかわかりますか?
雨が降っていることを表すときに、私たちは果たしてこんな表現をするでしょうか。
雨は“空”から“君”に降り注いでいる、つまり「上から下に降ってきている」と捉えるのではないでしょうか。
中島みゆきは、違うのです。
空の上から見た君に落ちる雨でもなく、君から見た上から落ちてくる雨でもなく、空と君との間の空間を切り抜いた。
あまりにも有名になってしまった曲ゆえに、「空と君のあいだに」という言葉の意味をわざわざ深く考えたことのある人は少ないと思います。
中島みゆきだからこその視点から生まれていたと考えると、この曲の奥深さを改めて感じることができるのではないでしょうか。
尤も、全体の歌詞を見ると本当に雨が降っているのではなく心情の比喩と思われるので、だからこその視点とも言えます。
中島みゆきの曲でもうひとつ。
『時代』という曲には、
という歌詞があります。
あなたに「時代がまわる」という概念はありますか。
時代は「巡る」や「過ぎる」が一般的ではないでしょうか。
フォーク界の重鎮であるさだまさしも、中島みゆきのものの捉え方を真似することは到底できやしないと言っていましたが、私も同感です。
目を閉じて時代が「まわる」ことを想像してみてください。
「巡る」よりも壮大に感じませんか。
中島みゆきが、この世の創設者のようにさえ思えてきます。
そもそもこの曲は、人が人生の中で喜びや悲しみを経験しつつも、また立ち上がって歩いていく様子を表現しているため、それを考えると「時代」という言葉は単位として大きすぎるように感じてしまいますが、その感性自体が平凡ということを突き付けられます。
中島みゆきは、風景・時間・次元、いろいろな“空間”を独自の感覚で切り取る天才だと感じます。
椎名林檎も、独自の感性で言葉を操るアーティストです。
漢字、カタカナ、ひらがなをこんなに自由に使う人はいないでしょう。
「いろはにほへと」という曲の歌詞には、
という部分があります。
「言う」ではなく「云う」を好んで使うのも椎名林檎らしい部分ですが、激しい当て字も言葉遊びが上手な彼女らしい部分であると感じます。
彼女は歌手であるため、歌うことで言葉を伝えるはずです。
その歌を聞いた人は文字を見ているわけではないので、わざわざ当て字をしている部分も「わらっている」「えいえん」「かなしい」としか認識しないでしょう。
それでも彼女はこのような表現で歌詞を書くのです。
あるいは、彼女がこの当て字を思い浮かべて声を発することで、相手に伝わってしまうのかもしれない、とさえ感じてしまいます。
同じく椎名林檎の『シドと白昼夢』という曲は、
という始まりです。
シャボン玉の中にいるような、ホワンとした雰囲気が綺麗ですよね。
内容に関してはおそらく、無理に理解しようとするより、これが椎名林檎の世界観だと思ってこのまま受け止めるのが正解だと感じます。
ただ、私にとっては、自分の心情に重なる部分だと感じています。
「ああ、わかるな」
初めてこの曲を聴いたとき、そう思いました。
どう表現していいかわからないことを表現してくれるのが椎名林檎。
そんな風にも思います。
もうひとつ、この曲の歌詞に美しい表現があります。
涙をわざわざ「透き通る小さな雨垂れ」という言葉で表現しています。
な・み・だ、というたった三文字で表現できる言葉を、です。
そして「雨」でも「雨粒」でもなく「雨垂れ」を選ぶことで、美しい流れの文章を作り出していると感じます。
過激な歌詞も美しい歌詞も自由自在な椎名林檎の言葉選びには、いつも心が揺さぶられます。
過激な歌詞といえば、今若者に大人気であるあいみょんの『貴方解剖純愛歌~死ね~』を思い出します。
貴方を「解剖」するという薄気味悪い言葉に続くのは「純愛」というピュアな言葉、そしてストレートで暴力的な「死ね」という言葉で終わる、曲名だけでお腹いっぱいになってしまうような曲。
この曲は、
と、好きな相手に対して感情が暴走した歌詞が並んでいきます。
いやいや怖すぎるでしょ、と思う反面、周りが見えなくなるほど人を好きになったことのある人なら、自分が言えなかったことを代弁してくれているようにも感じるかもしれません。
しかし、本当に怖いのはここです。
この歌詞を初めて見たとき、悪寒が走りました。
同時に、あいみょんというアーティストの魅力を強く感じました。
先ほどまでの猟奇的な歌詞に比べれば普通の言葉のように思えますが、よく考えてください。
明らかにずっとおかしなことを言っているのに「どこかおかしいですか」と聞いているのです。
さっきまでの猟奇的な言葉をおかしくないと思っているから、聞くのです。
いや、おかしいから。
ずっと猟奇的なことを言ってきたのは「人を好きになりすぎて過激な表現をしちゃった乙女」と捉えることもできるため、それほど恐ろしさは感じませんでしたが、「どこかおかしいですか」という一見普通の言葉は、逆に彼女を本当の危険人物だと確定させました。
この一文があるかないかで、この歌の意味は大きく変わります。
だからこそ、この一文を加えたあいみょんの凄さを感じ、また愛おしくも感じました。
もうひとり、言葉を操るアーティストの話をしたいのですが、その人物はつい最近葬り去られてしまいました。
故・ぼくのりりっくのぼうよみ。
約3年の、ぼくのりりっくのぼうよみとしての活動に終止符を打ったのです。
もう、ぼくりりとしての歌が聴けないと思うと虚無感に襲われます。
『葬式』という名の最後のライブは、MCを入れず、最初から最後まで魂のこもった歌を届け続けました。
ただただ、美しかった。
音も、声も、手も、笑顔も、涙も、映像も、客席も含めて全てが芸術で、美しい最期だった。
ぼくりりは、美しい日本語をたくさん掘り出してくれました。
何かで「インターネット上で作られた“オワコン”というような美しくない言葉は使わないようにしていたが、最期を迎えるにあたって解禁した」というようなことを話していましたが、私はこの“オワコン”という言葉でさえ彼が使うなら美しいと感じました。
このような周囲の押しつけのような期待が嫌なのもあってぼくりりを葬ったのかもしれませんが、やはり彼にはどんな言葉でも紡いで美しくしてしまう才能があると思います。
『曙光』という曲があります。
今更ですが、ぼくりりの歌詞に限らず、歌詞は最後まで繋がっているものだから一部分だけ書き出してあれこれ言うのはナンセンスだと思います。
しかし、全部書くわけにもいかないので厳選して書き出しています。
この部分だけでも苦しそうな内容の歌であることは想像がつきますが、もがき苦しむ「僕」にとって唯一の救いが「曙光」であるのだと思われます。
とても悲しいことだと思う反面、苦しむだけではなくわずかでも救いがあることには少しホッとした部分もあります。
この部分に限らず、比喩表現がとても上手だなと思うアーティストでもあります。
プールに沈んだ僕が、わずかに気泡を吐き出しながら曙光の射す水面に手を伸ばす、そんな幻覚を見ながら、人々は現実の生きづらさと重ね合わせます。
冒頭で同義語の話をしたときも触れましたが、朝の太陽の光には「旭光・曙光・暁光」などがあります。
その中でもぼくりりは「曙光」を選びました。
きっと「僕」は、「旭光」でも「暁光」でもなく「曙光」でなければ息ができなかったのでしょう。
そして同時に「曙光」という言葉も息をし始めました。
夜明けの太陽の光を表すこんな美しい日本語があることを知らなかった人たちが、ぼくりりによってその存在を知ったために。
このように、ぼくりりの歌詞には普段使わない美しい日本語が散りばめられているので、忘れていた日本語の良さを思い出したり、あるいは新しい言葉を知ることもあるでしょう。
表現の美しさでいえば『輪廻転生』の歌詞で、
という部分があります。
中でも「石ころだって 誰かの宝」という部分は、ハッとさせられます。
きっと誰でも経験があるのではないでしょうか。
他人の大切なものをそうとは気づかず、知らないうちに傷つけてしまったことが。
自分にとって価値のないものでも誰かにとっては大切なものかもしれない、ということがこの一文に美しくまとめられているところに、ぼくりりの美しさを感じました。
日本語は美しい。
それを紡いで、さらに美しいものにしてくれる者たちがいる。
私もいつか美しい日本語を自在に操れる人になれるように、たくさんの言葉に触れていきたいと思います。
きっと、違う世界が見えてくるに違いありません。
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