言葉は実感することで初めて命を宿す
最近「自分の言葉で語る」ということについて考え続けていて、この問いが予想以上に深いものだったために一向に終わりが見えない。
今まで自分の思考を放出することすらほとんどしてこなかったせいで、考えたこともなかった。
しかし普段触れる他人の発言には、たしかに自分の言葉で語っているかどうかがなんとなくだけど伝わってきて、感じているものだなあと🤔
きっと「自分の言葉で話す」ということは、借りてきた言葉の受け売りでないということがひとつあると思うのだけど、
「自分の言葉で語る」ことの「自分の言葉」とは果たしてなんなのだろう?
そもそも、言葉って誰のものでもなくみんなのもので、「自分の」なんて言ってしまって良いのかは疑問だw
少なくとも、どこかで見聞きした言葉をそのまま安易に使ってしまうのは、「自分の言葉」にはなっていない気がする。
ただ、この「自分の言葉で語る」という問いは、言葉に関して問うてるようで、言葉みたいな表面上の域ではない気がしてきた。
今私が考えている「自分の言葉で語る」とは、変だけど単なる言葉の話ではなく、内面からにじみ出る、体験・実感によるものなのかもしれない。
体験・実感を伴った言葉こそが、そこから発せられることで命を宿し、「自分の言葉で語る」ことになるのかもしれない。
なんだか今はそう思ってる(笑)
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