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春のはじめに

先週、岡山の叔父が亡くなった。叔母からの連絡を受けたのは、今年のお彼岸は仕事の都合でお参りに行けないかもしれないから少し早めにお参りしようと思い、菩提寺の最寄り駅に降り立ったその時だった。なんというタイミング……。もう一つ付け加えると、その日は私の誕生日の翌日でもあった。この2点で、私は一生叔父の命日を忘れない。
訃報を聞いて、叔父にまつわる思い出が頭の中で再生された。遺っているのはこちらなのに、走馬灯が展開してしまった。最期に会ったことになった昨年6月のこと、その前は祖母の法事、その前はいつぞやのお正月、その前は何かで集まったとき、その前はだいぶ飛んで祖父が危篤になったとき、その前はまた飛んで叔父が市会議員に初当選したときで――時系列を逆行して、幸せだった頃にたどり着いた。

あのときの私は小学4年生だったか3年生だったか。当時は神戸で暮らしていて、岡山の従兄妹たちとは頻繁に行き来していた。あの夏休み、まずは従妹のNがこちらに数日間泊まりに来ていて、叔父がトラックで迎えに来たのだ。当時の叔父は材木屋が本業だった。車種は覚えていないが、確か2tの紺色の平ボディのトラックがうちの前に横付けされた。今度は私が岡山に泊まりに行くことになり、叔父と従妹に挟まれる形でトラックに乗って、にわかに長距離ドライブの旅が始まることとなった。トラックに乗ること自体初めてで、すごくワクワクしたことを覚えている。

あの前後1年ほど、私はなぜか外で固形物を食べることができなくなっていた。何らかのストレスだったのだろうが原因は覚えていない。学校給食をどうしていたのかも記憶にはないのだが(食べるのは遅かった、昭和……)、家族でデパートの食堂で食事するときはポタージュスープを食べるのが精一杯だった。ハンバーグもエビフライも大好きだったのに、いざと注文しようと思うと、胸がつかえて食べられる気がしなくなって、「スープがいい……」と言うしかなかった。その記憶のお陰で、今でも食欲がないときはポタージュスープに頼るのだけれども。
叔父のトラックで岡山に向かったあの日、途中で食事を摂るためにドライブインに寄った。ドライブインじゃなくてサービスエリアだったか……? またしてもスープ以外はムリだろうなと思いながらメニューを眺めたのだが、叔父と従妹がハンバーグを勧めてくれて、なんとなくそれに従った。
果たして私は無事にハンバーグを食べることができた。あんなに長い間スープしかダメだったのに、あっさりと平らげた。何の変哲もない、デミグラスソースのハンバーグ。付け合せもなんのひねりもないにんじんのグラッセとフライドポテトかマッシュポテト、ほうれん草のソテーだったと思う。でも美味しかった! 美味しくって楽しくて、外食で食べられなかったことが一瞬で吹き飛んでしまった。後付の記憶だろうけれど、ドライブインの窓の向こうは、きれいな夕焼け空が広がっていた。叔父と従妹と、夕焼けを見てニコニコした記憶もある。あの頃の叔父は豪放磊落という言葉が似合う人だった。

4年前、祖母の法事で会ったときの叔父は、ひどく小さくなったと思った。もともと大柄の人だから初対面ならそんなことは思わないだろうが、萎んでしまったと感じたのだ。五臓のどれかを患い、腰のヘルニアで手術を受けた直後で心も身体も弱っていたのだろう。車の運転が大好きだったのに運転を叔母に任せて、それでも腰がつらくて何度も休憩を取り、約束の時間に遅れてきた。叔父はもうすぐ死んでしまうのではないかと怖くなるほど様変わりしていた。いつ訃報が来てもおかしくないから覚悟しておこうとまで考えるほどだった。その予感は大間違いだったわけだが、間違いでよかった。
最期となってしまった昨年の6月は、法事のときの不安が勘違いだったなと恥じ入るほどに復活していた。80近いのに自営の仕事をして、数年前に小さくなって驚いたのが嘘のようにシャンとしていた。叔母とも昔のように笑って喋って、もうすぐいなくなってしまうかもと思ったことが申し訳なかくしかたなかった。なんであんなことを考えたんだろうと己の早とちりを激しく後悔した。
でもそれは……。叔父が頑張っていたのは……。もしかしたら、叔母のためだったのではないだろうか……。

昨年、叔父と叔母に会いにいったのは、従妹が亡くなったことがきっかけだった。トラックに一緒に乗った従妹ではなく、その妹。40代になったばかりだったが癌を患い、治療の甲斐なく儚んでしまったのだ。直後には諸事情により知らされておらず、葬儀には参列できなかった。2ヶ月ほど経ってから叔母から連絡が来て知らされて、やるせない気持ちになるしかなかった。発症直後は話もしていたのに、力になることすらできなかったと虚しくもなった。
せめてお線香をあげたくて、お邪魔したのが6月だった。
あの日の叔父と叔母は、子供の頃の記憶通り、仲睦まじいふたりだった。甘えるように話しかける叔母に、しょうがないなあという空気を滲ませつつも愛でるような瞳の叔父。そうか、叔父はすっかり元気になったんだと思った。末の従妹が亡くなったのはみんなにとって辛いことだけれど、叔父と叔母が寄り添っていられるなら一緒に乗り越えていけるのだだなと安心しきっていた。まさかこんな日が来るとは。
前日もいつも通りに朝を迎え、いつも通りに事務所に行って仕事をし、いつも通りに一緒に帰って、いつも通りの夜を過ごしたのだそうだ。それなのに朝方に急変し、救急搬送されて、病院で最後を迎えた。もともと持病があって手術もしていたから、万全の身体ではなかったとは言え、あまりの急すぎる。永遠の命なんてないのに、人はどうして心の片隅に、自分の知り合いは絶対死なないと言う気持ちを置いてしまうのか。普段は考えもしないけれど、知人や親族の訃報を知る度に、頻繁に会うことはなくてもずっとそこにいてくれるはずと思っていたことの気がついて呆然とする。

わからない。なにもかもわからないし、憶測で考えるしかない。でも。もしかしたら。叔父の最期のときは、ろうそくの火が静かに消えるように、命の灯火が溶けた蝋と混じり合ってジッと静かに消えてしまったのではないか。本当はもっと前に叔父の命の灯火は消え入りそうになっていたのだけれど、従妹が病に倒れて、それを乗り越えるために自ら煽って灯火を保たせたのではないのか。叔母をひとりにしないために。叔母とふたりで従妹を支えるために。
荒木のおじちゃん。もう3週間頑張ってほしかったな……せめて従妹の一周忌まで。
もうひとつ気になること。従妹の一周忌が近いからと、連れていったんじゃないかなんて勝手に因縁付けて言う人がいたらぶっ飛ばしたい。彼女はそんなことしないし、もしするとしたら叔父じゃなくて叔母だ。仲良し母娘だったのだから。もし思っても叔母には言わないでほしい。

今日も明日も明後日も、我が家の仏壇で叔父のためにもお線香を焚こう。遠くでも叔父の魂に届きますように

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