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【ふせん】身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本_#019

概要

書評というほど本全体に対する批評は薄く、
読書感想文というほど総合的な感想ではない。
気になった言葉に対して感じたことを「ふせん」として書き記すシリーズ。

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本み


気になった言葉たちと感想など

人は「脅威!」と感じたときには、そもそも冷静でいられません

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本

人が感情的になってしまう場面では、内心を紐解いていくと脅威を感じている事実が背景にあるとのこと。
なにか突発的な怒りに遭遇した時は、その人がなにに脅威を感じているのかを考えられると、建設的にその場をどう対処すべきかも見えてきそうだ。


私たちは我慢している時点で、かなりの被害者意識を持っています

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本

人との衝突を避けすぎるあまり、自分ばかりが我慢し続けるような状況が続くと被害者としての意識がどんどん強くなり、悪循環に陥ってしまう。
この本ではこういった周りにあふれる「攻撃」に対して、考え方を変えてその量を減退させたり、立ち位置を変えてうまく距離をとったりと、さまざまな思考法が学べる。
自分で自分を不当に低く、被害者として扱ってしまわないように、日々の心持は気を付けたい。


生き物として人間が持っている「自己防衛システム」の一つで、目の前のことをどう扱っておけば安全なのかを評価しながら生きている

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本

いわゆる本能的な部分の話だろう。
こういった本能や深層心理といった日常生活では正確に認知しにくい特性みたいなものは、自分だけでなく周りの人たちの行動を分析するうえでも有効な知識になる。
普段と違う行動を取ろうとするときに、それを阻害する方向で働く現状維持バイアスも、この自己防衛の一種とも思える。
普段と異なる行動や状況は心が落ち着かないものであり、そういう状況の人は心の余裕が少ない状態になるということを覚えておきたい。


癒されていない人は、自分を守るために「思い込み」を持ちやすい

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本

これも一種の自己防衛ともいえるだろう。
ここでは「癒されていない人」と表現されているが、「心に余裕のない人」と読み替えても意味は通じるように感じる。
そして思い込みというものは自覚が難しいものでもあるため、周りの視点をうまく借りながら、自己を観察することも大事だろう。


「攻撃」してくる人は、困っている人

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本

人からなにかしらの攻撃性を感じたとき、相手がなにに困っているのかを考えられるようになると、攻撃そのものに不要な意味づけをせずに解決方法を考えられそうに思える。
また、自分自身も周りに攻撃的になっているなと気づいたときは、自分が何に困っているのかを考えられるように冷静さを持っていたい。


自信がなくなったとき
~中略~
ただ衝撃への反応が起こっているのだ

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本

反応は瞬間的なものであり、これをいつまでも引きずっても仕方がない。
なにか大きな失敗をしたときなど、その瞬間はどうしても自己嫌悪や気分の低下はあるだろうが、そこからどう挽回できるかでその失敗の価値も変わってくる。
反応はほとんど無意識に起こるものなので、これ自体をコントロールすることはほぼ無理だと思えるので、たとえ自信を無くす場面に遭遇しても、それを引きずりすぎないように気を付けたい。


自分が被害者のままでいると、どんどん被害者意識が強まりますし、「自分には何もできない」という無力感が強まります

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本

まさに負のループともいえる話だ。
さらにこの被害者意識というのは癖がついてしまうとそのまま被害者体質に発展し、常日頃からネガティブな目線を持ってしまいそうでもある。
不要に被害者意識を持たないために必要な点としては、「事実」と「解釈」を混同しないことだと個人的には思う。
自身が向き合っているものが「事実」なのか「解釈」なのかを見極め、それぞれに適した手法や思考法といった対処が必要だろう。


罪悪感に打ちのめされているとき、私たちは実は自分自身のことしか考えていません

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本

罪悪感を抱くことは一見すると周りを思って心を痛めているようにも見えるが、実はそうではなく一種の自己防衛として自分のためにそうしているという話。
大事なのは罪悪感に打ちのめされたあとの行動であり、そこで周りへの行動をどう起こせるか(どう反省できるか)でその意味合いが変わってくるのだろう。


自分は「攻撃された被害者」ではなく、「自由な他人」

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本

これは「攻撃」そのものに不要な意味づけをせず、適度に距離を取るためにとても重要な考え方だと思う。
もちろん直接的に攻撃者に対して「私は自由な他人です」と宣言すると火に油を注ぐ結果になるが、これは口に出さずに心でそう思えばいいだけのこと。「攻撃された」という事実は自身ではコントロールできないことだが、心で思うこと(解釈)は自身でコントロールでき、これだけで心理的負荷が大きく変わってくると思う。
自身が必要以上に被害者意識にとらわれていると感じたら、少し事実から距離を置いて自身が自由な存在であることを思い出せるようにしたい。


謝罪の「すみません」とお見舞いの「すみません」

身近な人の「攻撃」がスーッとなくなる本

これは怒っている相手に対して「すみません」と発するときの自身の中での使い分けのテクニック。
実際にこちらに非がある場合は前者の謝罪としての「すみません」を使うが、時と場合によってはこちらに一切非がない場合でも謝罪を強いられる場面はどうしてもある。この時、謝罪としての「すみません」を使うと不当な被害を感じる可能性があるが、お見舞いの気持ちとして「すみません」を使うとそれがなくなる。
この「すみません」は上手に自分の中で使分けていきたい。

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